何が女性差別に当たるかどうかは自分たちが決める

女性差別をめぐる問題で最も議論の的になるのは、特定の発言や表現を、「誰が・どのような基準で・差別だと決めるのか」という問いである。

フェミニズムとは、社会的弱者の自己定義権(=私は何者かを自分で決める権利)の獲得運動である。ツイフェミたちは、「何が女性差別に当たるかどうかは、当事者であり被害者である私たちが決める」「私たち以外に、女性差別に当たるかどうかを判定する権利はない」と主張する。

そうした主張の裏付けや権威付けとして、海外のデータや研究者・思想家の理論、国際条約を持ち出してくる場合もあるが、基本的には「何が差別に当たるかは、当事者であり被害者である私たちが決める」という姿勢を貫いている。しかし、「何が差別に当たるか」に関する社会的同意は、マイノリティの一方的な宣言によって形成されるものでもなければ、マジョリティの一方的な反省によって形成されるものでもない。

「差別/被差別」「加害者/被害者」「搾取/被搾取」の線引きは、当事者間の関係性や社会状況といった文脈によって決まる、極めて流動的なものである。

目に触れる全ての情報が怒りの「燃料」

文脈依存性の高い概念を、文脈を無視して濫用した場合、任意の相手を「セクシスト(性差別者)」「差別の加害者」と認定・糾弾することができる。

そして主語の全体化によって、女性に対する「差別」「暴力」「搾取」が社会のそこかしこに溢れているという認識になり、目に触れる全ての情報が「燃料」になる。そのために、「男が許せない」という怒りを無限に燃やし続けることができるようになる。こうした状況下では、客観的な事実よりも、主観的かつ体感的な感情に基づいた「真実」を信じることが優先される。そして、その「真実」に反する相手を攻撃することに疑問を抱かなくなる。

仮に「真実」に反する統計的事実を突きつけられても、「#私がエビデンス」というハッシュタグを印籠のように振りかざして、「セクシスト」と認定した相手を攻撃することがやめられなくなる。