三重県「アウティング禁止条例」の危険性
三重県で全国初となる「アウティング禁止条例」が施行されるかもしれない。LGBTなどの性的少数者に対する差別を禁止し、なかでも性的指向や性的自認を本人の了承を得ることなく暴露する——いわゆる「アウティング」を禁止する方針を盛り込むことを、鈴木英敬・三重県知事が議会にて表明したのである。
(高知新聞『三重が「アウティング」禁止条例 都道府県で初めて』(2020年6月3日)より引用)
この条例が可決するようにと賛成した人びとは、まったくの善意にもとづいて行動したことだろう。性的少数者の生きづらさに心を寄せ、彼・彼女たちの権利を擁護し、生活上の困難の解消に少しでも寄与できればとの想いだったはずだ。
だが、皮肉なことにこの条例によって性的少数者の権利や尊厳がいまよりも擁護されたり向上したりする見込みは薄いといわざるをえない。それどころか、性的少数者が生きるうえで、意図せずさらなる「生きづらさ」を背負わせてしまう危険性すらも内包している。
——なぜなら「条例にもとづくアウティングの『禁止』」は、周囲の人びとにとって「LGBTとのかかわりを積極的に回避するインセンティブ」を大きく高めてしまうからである。
「配慮」に息苦しさを感じる人たちが現れる
なんらかのマイノリティーの人びととかかわりを持つうえで、「~するよう(orしないよう)に配慮しましょう」という一定のコミュニケーション・コードが設けられることは、すべての社会の成員が等しく尊重され、その人らしく生きていくうえで重要なことである。
重要なことであるのは間違いないが、それ自体がかかわる側(マジョリティー側)の「コミュニケーションコスト」になっていることもまた事実である。
日常生活における何気ないかかわりのなかでも「やってはいけないこと、言ってはいけないこと、ふるまってはならないこと」をつねに念頭に置いておかなければならないことは、ニュートラルな人付き合いとは異なる性質のコミュニケーションとなる。
大なり小なりの認知的負担をマジョリティーとされる人びとに対して求めることになるためだ。もちろんその負担感は個人によって異なる。呼吸するように自然なふるまいで「配慮」を実践できる人もいれば、相当な緊張感とストレスのなかで、自分の言動を慎重に吟味する息苦しさを感じる人もいる。