本当は村野が麻雀で負けたせいだった

村野と優作の関係を調べてみると、これがまた面白い。二人は、なんでも新宿のバーで会ったという。その時は、バーテンダーと客という関係だった。もちろん、優作がバーテンダー、村野が客である。これが昭和47(1972)年2月のことだという。

岡田晋吉『ショーケンと優作、そして裕次郎 「太陽にほえろ!」レジェンドの素顔』(KADOKAWA)
岡田晋吉『ショーケンと優作、そして裕次郎 「太陽にほえろ!」レジェンドの素顔』(KADOKAWA)

当時の優作は、文学座を落ちて、金子信雄が主宰する劇団「新演劇人クラブ・マールイ」の演技教室に通いながら、その新宿のバー「ロック」でアルバイトをしていたらしい。

優作は「来月、文学座を受ける」と村野に告げた通り、この年、文学座の試験に合格して、文学座附属演劇研究所12期生となった。ちなみに、1期上に桃井かおり、同期に高橋洋子、山西道広、のちにジャズ歌手となる阿川泰子、1期下に中村雅俊がいた。

人と人とのつながりが新たな出会いを生むことはよくあるが、優作との出会いは、まさしくその典型だ。私と村野とがドラマで知り合い、優作が村野と同じ文学座に入り、そして私と優作が出会う――まさしく、人と人のつながりにより、新たな人生が始まっていくことになる。

バーで知り合った時、村野は優作の存在感に驚いたという。私に、こう語っている。

「いずれ、出てくる男だと感じた」

そして、優作は文学座で村野の4期後輩となった。まさに、運命の出会いであろう。

ところが、後で聞いたのだが、この話には面白い裏話があった。

村野が優作を推薦した理由は「優作が面白い役者になる」と思ったのではなく、私に会う前日の晩に村野が麻雀で負けた時の約束だったというのだ。村野が仕方なく名前を挙げたことなど知らない私は、すぐに松田優作に会う段取りを取った。

「確かに面白いから、見においでよ」

私は早速、文学座の養成所の校長をしていた吉兼保に連絡を入れた。

彼を知っていたのは、私がアメリカ映画の日本語吹替版を作っていた当時、足音やドアが閉まる音などの効果音を担当してくれていたからだ。文学座の舞台公演だけでは食べていけなかったのだろう。アルバイトで手伝ってくれていた。

そんな関係で親しかったので、すぐに電話をした。

「村野から聞いたけど、面白いやつがいるんだって?」
「優作のことかな、確かにあいつは面白いから、見においでよ」

と言って稽古日を教えてくれた。