村瀬氏は1999年に社長就任後、キヤノン製品の卸販売から、システムインテグレーションを中心とするソリューションビジネスへ構造改革を断行。常に顧客の視点に立つ「顧客主語」を理念に掲げた。それはプレゼンにも当てはまるという。

2003年、村瀬氏はシステム会社、住友金属システムソリューションズの買収に踏み出すが、その交渉過程でのことだ。キヤノン側は資産査定など法律で決められたプレゼンを行った。そのとき、相手方から「何で私たちを買収しようとするのですか」と思わぬ質問が飛び出た。

「販売会社がなぜ、システム会社を買うのかと。もしかするとキャピタルゲインねらいではないか。相手方からすれば切実な問題です。確かに当時、われわれのITサービス事業はほんのわずかでした。それを育てるには時間とコストがかかる。だから、あなた方の力をそのまま生かし、事業の柱を担ってほしいと伝えました。理解し合えたことが大きかった」

人は自分を理解してくれる人にのみ心を開く。「聞き手主語」に徹し、相手が心を開いたところで、わかりやすい言葉で意思を伝えれば、必ず共感を得られる。

「その意味ではプロポーズと同じ」

と村瀬氏。そのプレゼンの極意は簡潔明瞭だ。自分は何をしたいのか、結論を先にいう。要点を示すなら多くて5行。原稿ではなく自分の言葉で語る。スライドに向かって話すなど論外。聞き手に顔を向け、表情を確認しながら臨機応変に内容を変える。本当に必死になれば、即興で流れを逆転させることもできる。

「成否を分けるのは資料などではなく、きちっと結論を出し、意思を明確にするための本当の準備です」(村瀬氏)

「幸運は準備された精神にのみ微笑む」とは細菌学者パスツールの有名な言葉だが、「本当の準備」をどこまでできるか。本質的なプレゼン力が試される。

(小原孝博=撮影)