是清は明治25年、39歳のときに日銀を新築するための事務所の事務主任になった。そのとき工事に使う原材料の管理のずさんさや、工期の遅れの原因に気づき、各部署の担当者の声を聞いて双方の意思疎通を図り、改善することに成功した。また、工事を進めるうえで、必要な人材と鋼材と、そうでない人材と鋼材を見極めて迅速に合理的に動いた。是清は工事を担当する4人の親方とまとめて契約するのではなく、一人ひとりと直接契約を結んだ。「銀行は四角い。親方を4方面に分けて工事を分担させよう」と考えたのだ。

是清は日銀の総裁になったときにも「こんなことまで」と思うような改正案を行っている。たとえば日銀の物品管理が大雑把だったため、消耗品に至るまで無駄が多かった。そこで新人を起用した。しかし、ズブの素人ではなく、畑の違う公立学校で用度係を担当していた人材を探し出してきて担当者に据えたのである。この担当者がそのことを恩義に感じて思い切った改革を施した。その結果、日銀内の無駄がなくなった。

蔵相時代にもさまざまな経済政策を行っている。経済危機となると必ず参考にされるのがケインズの経済理論だが、是清は昭和11年にケインズが発表した『雇用・利子および貨幣の一般理論』よりも前に、ケインズ理論を先取りした政策を断行している。ケインズ理論の内容をひと言で言うと、「失業社会で完全な雇用を実現するためには、国が積極的に金利を下げて、財政支出の膨張をはからなければならない。その前提として、金本位制を放棄し、通貨の人為的膨張(インフレ政策)をはかるべきだ」ということである。

(中島 恵=構成)