※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し」
東照公御遺訓として、次のような言葉が残っている。
不自由を常とおもへば不足なし こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ
勝つ事ことばかり知りて まくる事を知らざれば 害その身にいたる
おのれを責せめて人をせむるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり」
サッと読めば、徳川家康は常に「忍耐」を旨として、何でも我慢していたのだと思いがちだ。かれは幼少年時代、織田家と今川家の人質であったために、余計そういう感を持つ。
しかし徳川家康は、なにもかも我慢をし続けていたわけではない。確かにかれは物事に対して慎重だった。しかし、やらなければならないときは、周りの人々に目をむかせるような果敢さもあった。
「庭に放尿」で侮辱に対抗した幼少期
たとえば、かれが少年時代に今川家の人質になっていたときに、武田家から今川家に使者がやってきた。今川家の首脳部と談笑する武田家の使者は、
「そういえば、当家にはあの意気地なしの松平の小倅が人質として捕われておりますな」
といった。
たまたまこのとき、その部屋の脇の廊下を少年家康が通りかかった。家康はこれをきくと、いきなり袴の前をまくって、庭に放尿をはじめた。気づいた今川家の首脳部と武田家の使者はびっくりした。
特に驚いたのは今川家の首脳部である。というのは、家康は比較的扱いのいい少年で、駄々をこねることなど全くなかった。つねに控えめで、学問に精を出し自分の存在を極力抑えてきた。それが、こんな真似をしたのである。
今川家の首脳部と武田家の使者とは顔を見合わせた。
(この少年は、勇気がある)
と感じたのである。家康にとって、なによりも大切なのが「名誉」であり「面目」である。織田家と今川家という実力者の間で生きなければならない小豪族・松平家は、苦悩の連続だ。これは運命がそうさせたのであって、松平家の実力云々ではない。大国の間に挟まれた小国の悲劇である。
その運命を少年家康は、静かに受け止めていた。
(逆らっても、現実がこういう状況ならば、どうすることもできない)
静かに、状況の変化を待つ以外ない。だから慎重に生きてきた。
しかし、そういう中でも、どうしても譲れないことがある。今回の侮辱はその例だ。だから、少年家康は庭への放尿という行為によってその侮辱に対抗したのだ。