大敗して、世論を勝ち取る

元亀三年(一五七二)、都を目指す武田信玄の大軍が、徳川家康がその頃拠点としていた浜松城のはるか北方を通過しようとした。

これを知った家康は、攻撃しようとした。部下たちは反対した。また、不時の備えとして織田信長が派遣した応援の将たちも反対した。

信長自身も、

「いま、家康が打って出れば必ず粉砕される。そうなると、家康が敗れた後、おれは、上方の反信長軍と信玄の挟み撃ちになる」

と警戒していた。家康はそんなことは百も承知だ。しかし、このときは打って出た。

案の定、かれは大敗してしまった。この敗走するときの情けない表情の肖像画が現在も残っている。

しかし、敗れても家康は満足だった。というのは、このときから世論が沸いたのだ。それは、

「律義な徳川殿」

という評判であった。律義な徳川殿というのは、

「たとえ敗れても、徳川殿は織田信長殿との同盟を守り抜いた。負けるとわかっている戦いにも勇敢に打って出ていった。見事だ」

という賞讃の声である。家康はほくそ笑んだが、信長は苦笑した。

(タヌキめ、やりおるわ)

とつぶやいた。

風力方向インジケータ
写真=iStock.com/photo_world
※写真はイメージです

新しい世論を生み出した家康の大勝負

その織田信長が明智光秀に殺された。その後、誰が天下人になるかで武将たちの争いになった。結局、なんだかんだといいながらも策を弄して、信長の部下だった羽柴秀吉が天下人になった。

しかし、出身身分の問題があるのでかれは武士の最高職である征夷大将軍になれなかった。だから公家の職である関白そして太政大臣になった。秀吉は豊臣と姓を変えた。

秀吉は、自分への忠誠心を求めるために全国の大名に対して、

「天皇への忠誠を誓うために大坂城に来い」

と命じた。全国の大名は大坂城に参集した。行かなかったのは徳川家康だけである。家康にすれば、

「秀吉は、(信長の同盟者である)おれから見れば家来筋に当たる。そんなやつに、忠誠を誓いに行く義理はない」

と突っ張っていた。

これは家康が慎重さの果てに選択した果敢さである。かれはここで大勝負に出た。勝負の目的はなにかといえば、ここでまた新しい世論の形成を促すことである。

つまり、

「織田信長と同盟者だった徳川殿は、ここでも豊臣秀吉に臣従することを潔しとしない。気骨ある人だ」

という評判を打ち立てたかった。