タイミングを推し測り「負けて勝つ」
この評判は目算通り、日増しに高まっていった。秀吉は焦った。そこで、すでに亭主持ちの妹を離縁させ、ちょうど妻のいなかった家康の後妻に押し込んだ。
それでも家康は動かない。秀吉はさらに、自分の母親を、「嫁にいった娘に母が会いたがっている」という口実を設けて岡崎城に送った。人質である。ここまでやられると、家康の慎重さもほころびる。つまり、
「信長殿に義理立てする律義な徳川殿」
の評判は、すでに高まり、はちきれんばかりになっている。このまま強情を張れば、今度は世論はクルリとひっくり返る。
「豊臣秀吉があそこまで意を尽しているのに、まだ頑張っている徳川殿は、あまりにもこだわりすぎるのではないか」
と変わってしまう。この絶妙なタイミングを家康は推し測っていた。かれは部下にいった。
「大坂城に行く」
部下はびっくりしたが、人質にとった秀吉の母の居館の周りに薪を積上げ、なにかあったらすぐ焼き殺すような手配をした。当然こんなことは秀吉の耳に入る。秀吉はくちびるを噛んだ。
家康が味方につけた「世論の力」
大坂にやってきた家康を、秀吉はひっそりとその宿舎に訪ねた。そして、
「わざわざ恐縮です。明日は、挨拶の中で多少あなたのことに触れますが、ご勘弁ください」
と根回しをした。家康は、
「どうぞご随意に」
と、すでにまな板に上がった鯉の貫禄を見せた。翌日、秀吉はまず家康に怒鳴った。
「徳川家康、このたびの挨拶、まことにご苦労である!」
眼から憤りが飛び散った。しかし家康は平然と頭を下げた。かれにすれば、決してこれは負けたのではない。むしろ逆に勝ったのだ。世論はすでに徳川家康の味方をしている。
〈慎重に慎重さを重ねた徳川殿も、豊臣秀吉のあそこまでの好意を無にすることができず、情にかられて臣従の誓いを立てたのだ。胸のうちは、推察するにあまりある〉
と、むしろ同情の声を立てた。