誰もが「140文字」を発信できる時代
Twitter上では、強者も弱者も平等に140文字が与えられるので、これまで世のなかに晒されることのなかった声が広く漂うようになります。それによって、私のようにマイノリティ向けのブランド展開をしても、さまざまな場所から多くの人がアクセスしてくださり、選ばれるようになりました。
ただ、全員が同じく140文字を持ってしまったからこそ、その140文字で他者を傷つける人も出てきましたし、より多くの価値観に触れざるを得ない状況で私たちは生きていくことになりました。
この「より多くの価値観に触れざるを得ない状況」というものは、心の準備ができていない人にとってはやや厳しい状況だなと感じます。
なぜなら、表現の自由、価値観の自由、発言の自由といった断りがつくもののなかには誰かに不快感をもたらすものが少なからずあるからです。誰にも不快感をもたらさないものであれば、ことさら“自由”という言葉を使って権利を主張するまでもないものであるはず。誰かの自由がすなわち、自分自身のストレスフリーな状況であるとは限らないのです。
このようにインターネットという無限の繋がりによって、良い面も悪い面も照らされることになりました。インターネットのおかげですべての人に平等に情報が行き渡るかと思いきや、これまで以上に情報格差が広がり「調べることができる人」が力を持ち始めているような気もしています。だからこそ、事業者側もユーザー側もあえて(面倒ではあるけれど)能動的に情報を選べる社会にしていく必要があると思いますし、私のやる事業でも大切にしています。
「自分が否定されている」と感じてしまう
インターネット以前における価値観は、ある種、その土地やコミュニティに根ざしてつくり出され、ゾーニングされているものだったと思います。だからこそ、地域や国ごとに価値観の差がありましたし、距離が遠ければ通信費がかさんだり、やりとりに時間がかかるなど情報交換も容易ではなかったため、それぞれが侵されることなく成立してきたのでしょう。
しかし、インターネットが定着した現在、さまざまな価値観が交差し、ぶつかってしまうことは避けられません。にもかかわらず、公用語がひとつだけで多様性を持ちづらい日本は、そのような場合、どうやってこれまでにない価値観と共存していけばいいかという経験値が低いのです。相容れない別の価値観でさえも受け入れなければならないのではないか、自分たちに内在化させなければならないのではないか、自分たちが否定されているのではないかと感じている人も多いのではないでしょうか。