痴漢の被害者が、非難されるという不思議

痴漢や性差別などについて被害を公にすると、本来、非難されるべきでない被害者が非難され、加害者は非難されないといった謎の構図をよく見ます。

「自分は差別・被害を受けていない」ということだけなら、事実を伝えているだけなので、過剰に批判することはできません。ただ、そのようなことを主張する人たちには、「自分は差別や被害を受けていないから、ほかの人も本来はそうであるはずだ」「頑張れば差別・被害を受けずに過ごすこともできる」という、他者も自分と同様だとみなすニュアンスを含む主張が多いため、なんとなく心のどこかに引っかかっています。

まず、前提として私の主張で一貫していることは「(性別だけでなくさまざまな分野で)偏見やバイアスがゼロなんて脳の構造上まずあり得ない」ということ、そして「権利や力を持ったうえで、そのポジショントークを他者にも当てはめようとするのはダサいし、それ自体が差別者を擁護し被差別者の心を踏みにじる」ということです。

正論の皮を被った「ポジショントーク」

たとえば、私がLGBTなどセクシャルマイノリティの結婚について語ることはできますが、それはあくまで「自分はセクシャルマジョリティであり、自分が選んだ相手と結婚できる権利を持っている人からのポジショントーク」になってしまうと感じます。だからたいていの場合、その前置きをつけてから話すようにしています。

ただ、現状の性差別や性別によるバイアスの議論や意見を見ていると「“たまたま”できてしまった人のポジショントーク」が、正論の皮を被って「万人にその主張が適応されるべき」となっている空気を感じます。さらに「#NotAllMen」ではないですが、加害者はごく一部なのだから、被害を一般化するなという人たちがそのようなポジショントークを応援してしまう構図になっています。その原因はなんなのだろうかと、以前読んだ本などを引っ張り出してきてさらってみました。

アメリカなど多くの国では、ルール上、人種を問わず権利が与えられるようになってきたのはご存じの通りだと思います。ただ、いまだに人種間の収入格差があります。それに対して、収入の高い白人側からは「同じ権利をもってしても給料が低いのは、結局黒人の能力が低いことを示しているのではないか」との声が上がっています。

でも、実際はそういうことではないのです。能力が低いのではなく「同じスペックだった場合に、黒人より白人のほうが有能だと認知される」というバイアスがその裏にはまだ残っており、それが結局、収入格差という形で表れているのです。