女性活躍が進まないのは「意識」の問題か
この話は、性別間でも同じではないでしょうか。たしかに、権利やルール上は女性も男性も平等になりつつありますし、実際うまいこと差別やバイアスに足を引っ張られずに成功してきた人はいると思います。だからといって、バイアスがまったくないとみなされることや、いまだに存在する収入格差が属人的な理由に転嫁されるのは違うのではないでしょうか。さらには、実在する被害がなかったことにされてしまうのは、なおさら問題だと思います。
『制度が整ってきたからこそ、高学歴・正社員の女性の就労や活躍の可否は、本人の意識や意欲の問題として理解される面が大きい。日本生産性本部の調査では、「女性社員の活躍推進上の課題」として、回答企業の4分の3が「女性社員の意識」を挙げている。(中略)そのような疑問に対し、フェミニズム系の研究者たちは、男性稼ぎ主モデルの社会では、主婦やケア労働、腰掛け的なキャリア選択が合理的になってしまう構造を指摘・批判してきた』――中野円佳『「育休世代」のジレンマ』(光文社新書)より引用
そう、たとえば「結婚して女の幸せに目覚めたから辞めるんだろう」とか「女性には活躍したいという意識が足りない」といったバイアスや差別の問題です。
「いやいや、でも実際に女性は、どんなに仕事をしていた人でも出産したら辞めるじゃないか」という意見も聞こえてきそうですが、私はその状況自体が差によって生み出されたものではないかと思っています。
自殺者は男性の方が圧倒的に多い
つまり、男性が働くほうが給料が高く合理的だから、サポートに回ったほうが効率が良いという合理性をもって女性は仕事を辞めるのではないでしょうか。自分が出世するよりも、旦那が出世したほうが効率が良いからという合理性。そうした背景があっても「女性の意識が~」という話になるのでしょうか? 意識をそいでいるのは、女性自身なのでしょうか。社会や仕組みなのでしょうか。
私はこの議論で女性の不遇だけを嘆いているわけではありません。ルール上男女平等になったとしても、女性へのバイアスは存在しますし、それはつまり男性へのバイアスも強く存在し続けていることをあらためて議論しなければいけないのかなと思っています。
たとえば、自殺者数は圧倒的に男性のほうが高い。2018年時点で、自殺者数は女性よりも約2.2倍も高くなっています。
『同時に、男性の長時間労働の流れも一九七〇年代後半から拡大していく。この時期、多くの社会が、男女の労働参画とそれを支える労働条件整備・家族政策の充実に向かったのに、日本政府は、「男性の長時間労働と女性の家事・育児プラス子育て後の労働条件の悪い非正規労働」という、一九七〇―八〇年代型ジェンダー構造を選択したのだ』――『現代思想 2019年2月号』「男性学・男性性研究=Men & Masculinities Studies(個人的経験を通じて)」伊藤公雄より引用