傾斜角度が13度というその坂道は見上げるような勾配で、スキー場の急斜面のようにも見えた。当時の国産車では一杯清水を一気に上ることができず、途中でいったん休んでから、また上るのが通例だった。そこをスバル360の試作車は大人4人を乗せて登坂していこうというのである。

百瀬たち技術陣は一杯清水を上った坂の上の地点、新坂平で車を待つことにしていたが、初回のトライアルではスバル360は上ることができなかった。

エンジン全開で登坂すると、途中でオーバーヒートしてしまうのである。そこで、また工場に戻り、設計を考えたり、部品を手直しした。

数回の登坂走行の後、4人乗りでアクセル全開のスバル360は14キロの坂道を35分で走破することができた。運輸省の新車認定試験の直前のことで、なんとか間に合わせることができたのである。

オーバーヒートした高級車の運転手もポカン……

参加していた技術者のひとり、松本廉平はこんな感想を残している。

「その後も赤城山の急坂路を上るテストは続けました。ある日、登坂していたら、坂の途中で東京から来た大型の外車がオーバーヒートして、エンジンフードを開けて熱を冷ましていました。そのわきを僕ら大人4人が乗った軽自動車がすいすいと登っていくわけです。高級セダンの横に立っていた人がポカンと口を開けて、茫然ぼうぜんと見ていたのを覚えています」

スバル360が売り出されたのは1958年5月である。価格は42万5000円。トヨペットクラウンの半額だった。

その後、同車は1970年まで約39万2000台が生産され、ベストセラーでロングセラーとなるとともに富士重工の基礎を築いた。

てんとう虫という愛称で呼ばれ、大勢のマニアも生まれた。マニアたちは発売から半世紀以上が過ぎた今でも、てんとう虫を愛し、ごくたまに路上でも見かけることがある。1950年代にできた日本車で今も一般道路を走っているのはこの車くらいのものだ。

中島飛行機時代の“得意技”が生きた

中島飛行機と富士重工で販売部長も務めた太田繁一は「百瀬さんは日本の車を変えましたね」と言った。

「これまで語られていなかったけれど、スバル360にしろ、その後のスバル1000にしろ、本当の飛行機技術が反映されているのです」
「飛行機も自動車も同じように燃料を燃やして走るものです。ところが、飛行機は何千メートルも急上昇したり、あるいは急下降します。酸素の濃いところから薄いところまで行ったり来たりする。宙返りなんかもしちゃうのです。機体がどんな状態であれ、つねにエンジンまで燃料が供給されなくてはなりません。」