「そのためには燃料ポンプ、燃料ホースからエンジンまでの道筋が大切なんです。気圧が変わっても燃料を供給する通路の設計は飛行機技術者がもっとも得意とするところでした。百瀬さんはそれをわかっていたから、スバル360、スバル1000はどんな急坂でも上ることができたんですよ」
太田が指摘したとおり、敗戦後、日本の自動車業界には大勢の飛行機技術者が入ってきた。そして、彼らが伝えた最大の技術とは、一般によく指摘されるモノコック構造ではなく、燃料通路の設計だった。
日本の自動車技術が格段に上がった理由
たとえばアメリカからの輸入車を持ってきて、坂の多い日本の道を走らせるとエンストしたり、オーバーヒートするのは当たり前だ。アメリカの車は平たんな市街地を走るためのものだったから。
それにアメリカの自動車会社には飛行機設計の技術者はいない。飛行機設計の人間は飛行機を、自動車設計の技術者は自動車をやっていた。
ところが、敗戦国の日本は「飛行機を作るな」と言われ、富士重工に限らず、トヨタ、日産、ホンダなどには飛行機の技術者が続々入社してきたのである。彼らが自動車開発に携わったため、日本の車の質は格段に上がった。
モータリゼーションが進んでからも、日本に主にアメリカ車が入ってこなかった理由はいくつかある。
本体の価格が高かったこと、車体の大きさが狭い道路には不向きだったこと、左ハンドルだったこと……。それに加え、アクセル全開で坂を上るとオーバーヒートしてしまう、あるいはエンストしてしまうことが多々あったのである。
1950年代、60年代、アメリカの自動車技術者は自国で車が売れていたから、小さな日本のマーケットに合わせて自動車を改良しようという気持ちは持っていなかった。
一方、飛行機の技術者を迎えた日本の自動車業界は日本の道路に合わせた設計で次々と魅力的な車を開発していった。
「日本車は故障が少ない」
海外でもそういった定評ができたのは日本車にはモノコック構造など目に見える飛行機技術が車にいかされただけではなく、内部構造でも飛行機の技術が採用されていたからだった。
“日進月歩”の時代に10年以上存在感を放った
さて、スバル360は発売後、マーケットを快走したが、遅れて出てきた軽自動車、マツダキャロル(1962年発売)が一時期、スバルに肉薄した。性能や室内の広さはスバルの方が上だったのだが、キャロルはデザインが女性ウケして、ユーザーの奥さんたちが「これにしよう」と、夫にすすめたのだった。
トヨペットクラウン、日産ブルーバードといった当時の小型車の主な需要はタクシーと業務用である。選ぶのは男性、ビジネスマンだ。
一方、軽自動車は業務用ではなく、家族が乗る車で、車種選びに女性の意見が重要視される車でもあった。性能や室内の広さだけでなく、見た目が一般受けするマツダキャロルは特に女性に人気が高かった。
1967年にはホンダがN360を出した。最高出力はスバルの5割増しで、価格は10パーセントも安かった。
軽自動車のユーザーたちはもちろん飛びついたし、若者たちも入門用にホンダN360を買った。その頃には若者が自分で乗るための車を買えるようになっていたのである。
一方、発売してから10年近く経って、やや時代に遅れたスタイルになっていたスバル360はホンダN360の登場により、マーケットの片隅に追いやられてしまう。
太田は次のように説明してくれた。
「あの時代は日進月歩でしたから、すぐに新しい技術の車が出てくるのです。そんな時代に10年以上、モデルチェンジをせずにやってこられただけでスバル360は幸せな車だったと思うんです」
※この連載は2019年12月に『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)として2019年12月18日に刊行予定です。