「世界のライトカーと比べても遜色ない」

それくらい、中島飛行機時代からのエンジニアである百瀬晋六たちが作った「てんとう虫」は上出来の車だった。著書『間違いだらけのクルマ選び』でも知られる自動車評論家の徳大寺有恒はこう評している。

「初期のライトカーたちにとどめを刺し、軽自動車の決定版として一九五八年に登場したのが、富士重工のスバル360である。スバル360は立派な自動車だった。当時、日本だけでなく、第二次世界大戦の敗戦国のドイツやイタリアでも、メッサーシュミットやBMW、イセッタ、チュンダップなどの、簡便なライトカーが大量に作られていたが、スバル360は、それら当時の世界水準のライトカーすべてと乗り比べても、遜色ない性能を持っていただろう」

「スバル360は実にパッケージングが優れていた。(略)そのボディは四角いフルワイドボディではなく、まだ曲線のフェンダーラインを残しているものだったが、それを決して無駄に使ってはいない。(略)

リアシートにも大人二人が乗れるから、その気になれば、少々つらいとはいえ、大人四人を乗せてぼくの得意の日光くらいは充分行けただろう」(『ぼくの日本自動車史』徳大寺有恒)

サラリーマンでも手が届くのに高スペック

徳大寺が驚いたように、スバル360は当時の技術の粋を尽くしたもので、ユーザーにとっては、お値打ちのクルマだった。価格は42万5000円(公務員初任給9200円)。オートバイ2台分の360ccというエンジン容量なのに大人4人が乗ることができた。しかも、舗装されていなかった当時の道路を時速60キロで巡行できたのである。

通産省(現経済産業省)が出した「国民車構想」に応募し、量産されたのは三菱重工の三菱500だけだった。しかし、価格が高すぎて、国民車になり損ねている。

だが、スバル360は価格がサラリーマンでも手が届いたし、何より国民車の基準よりもはるかに高いスペックを実現してしまったのだった。

当時、新入社員だった同社OBは「私自身も買いました」と語る。

「スバル360は飛行機技術者だから作ることのできた軽自動車でした。エンジンは二気筒の空冷エンジン。フレームレス・モノコック構造で、四輪独立懸架。車体の鋼板は0.6ミリと薄く、軽量化に役立ちました。また、屋根は強化プラスチック(FRP樹脂)だから、これまた軽い。大傑作車で、発売から11年間、モデルチェンジなしで市場に出していましたし、大人気でした」