公平なプロセスで対立する立場の作品まで展示すれば大きな意義
一方的な政治的立場の作品だけではなく、対立する立場の作品や、自分事に置き換えた作品も一緒に展示すれば、今回の「表現の不自由展・その後」の展示のどこがおかしいのかが明らかになったと思う。行政が関与する事業では、どのような芸術が許されるのか。なぜこのような展示が過去に不許可になったのか。行政が関与する事業かどうかにかかわらず、先祖や個人を侮辱するような作品は許されないのではないか。このようなことが、抽象的な理屈抜きに、作品群を見ればはっきりと伝わったと思う。
津田さんがそこまでの覚悟を持っていたのであれば、そのような「表現の不自由展・その後」の企画は大いに意義があったのかもしれない。
もちろん、今よりも激しい批判の嵐を受けるであろうが。
そして中立性を保つために全ての立場の作品を展示するというのであれば、その作品の選考方法は公正なものでなければならず、表現したいという者には平等にチャンスを与え、厳格なプロセスで選定しなければならない。特定の立場だけを採用する仕組みは許されない。
そのような意味からは、「表現の不自由展・その後」の実行委員会に、作品の決定権を全て委ねたことは、行政の中立性を害し、許されない。
(略)
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※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.164(8月20日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【表現の不自由展(3)】表現の自由の問題ではない! 混乱の主因は現場の独走を許した組織マネジメントだ》特集です。