がむしゃらに頑張ってきた彼女たちは報われたのか
女の生き方は多様になっている。それゆえの辛さを描いたのがこの本だ。
いつの時代にも、ものが見えるというのはしんどいことだ。例えば出世競争。この仕組みはうまくできていて、少しずつモチベーションを煽り続ける仕掛けになっている。集まれば人事の話、というのはどこの企業でも変わらぬ風景だ。そのやる気を少しずつ牽引し長引かせるテクニックによって、男性の多くは集団社会、ピラミッド社会に属し頑張り続けてきた。ただ、その構造にある日気づいてしまえば、虚しさに襲われる。
対して、女性には多様な生き方がある。組織に属さない専業主婦にとっては、社会との関わりは身の回りの数人との関係性に色濃く規定され、であるがゆえにそこから影響を強く受けてしまう。組織に埋没すれば、男性と同じようなピラミッド社会の論理に組み込まれる。けれども、そこに結婚、出産、独立、専業主婦になるなどの選択肢がある限り、悩み続けなければならない。判断を先送りにすれば、そこにも結果やコストが伴う。
そんな女性の悩みを指して、覚悟が中途半端だという人もいるだろう。けれども、身分社会から解放された近代人が新たな可能性に戸惑い、不安を抱いたように、女性が自分たちに開かれた多様な選択肢に適応するのに、30年やそこらで済むわけがないのである(男女雇用機会均等法は1986年施行)。
少し前に、SNSで注目を集めた2枚の写真があった。均等法以前の昭和の女性新入社員が思い思いのワンピースを着ていたのに比べ、今の女性新入社員がまるでマネキンのように同じ髪型とリクルートスーツで並んでいたことが話題となった。現代は没個性化した社会だといわれるが、それは戦後に格差が縮小し、女性にピラミッド組織に入っていく自由が与えられ、多くがそこに参画したからにほかならない。現代社会が没個性化しているのではなく、皆にリクルートスーツが行き渡るほど豊かに、そして女性の生き方が多様になったのだ。
しかし、それは幸せにつながる道だったのだろうか、と涼美さんは問う。知恵をつけ、野心を持ち、かつ理想の男性にも出会おうとしてがむしゃらに頑張ってきた彼女たちは報われたのか、と。
それなりの自由と幸せを手にし、ものを見極める目を持ち、自分のずるいところもいいところも見つめられるようになっても、女であることからは逃れられない。男と女が互いに意思疎通の難しい生物であることにも変わりはない。言葉を重ね意味を読み取ろうとする女性の虚しい努力は、肉体のぶつかり合いを通じてしか解消しなかったりもする。それでも、言葉を尽くして自らの孤独を綴る彼女の試みを、私は愛おしいと思ったのだ。