データ軽視、データ無視、勝手な解釈にあふれる

データの重要性は、多くの企業が認識しているだろう。しかし、経営の実践の場では、データ軽視やデータ無視、あるいは、思い込みに基づくデータの勝手な解釈に依拠する意思決定があふれている。

例えば、新卒学生の採用、能力開発のための異動、管理者への登用などの人事に関する判断は、果たして確固たるエビデンスの裏付けをもったデータに基づいて行われているだろうか。例えば、新卒採用では「コミュケーション能力」が極めて重視されているが、多くの研究に基づけば「コミュニケーション能力」は生来のものではなく、研修や経験の蓄積を通じて向上することができることが明らかになっている。つまり、採用時点でのコミュニケーション能力などよりはるかに重視すべき要素があるにもかかわらず、それらは採用基準の対象外とされているのである。

また、マーケティング・プロモーションが、売り上げに寄与しているかどうか分析は行われているのだろうか。既存顧客との関係性をさらに高める営業活動が功を奏しているというデータの裏付けは取れているとは限らない。いずれにしても、そして、残念ながら、意思決定におけるデータ活用は何十年もほとんど進歩していない。

本来は、販売促進活動のために費やされた経営資源量を測定するとともに、プロモーションを行わなかった場合との比較をし、プロモーションが有効であったかどうかを判定しないといけないはずである。そして、既存顧客への繰り返される訪問に要するコストが、売上の維持や新規ビジネスに本当に結びついているかという分析も必要である。もしかすると、営業担当者は「表敬訪問」的な出張を繰り返しているだけで、企業業績の向上には貢献していないかもしれないからである。

投資意思決定(設備投資のみならず、研究開発、海外進出、M&Aなどを含む)においても、データの位置づけは明確でないばかりか、投資の決定はどこかですでに行われた後で、ねつ造されたデータによる説明と会議での承認がなされることもまれではない。宣伝広告の効果の科学的分析も、その困難さもあって、十分には実施されていない。さらに、成功例・失敗例から得られるはずのデータの分析から、その理由を解明することも行われていない。

「無理だ、難しい」を理由としてデータ収集やデータ分析を怠ってはならない。地道な努力の蓄積から光明が得られると信じて、取り組むことが必要なのである。なぜなら、現実を見事に写し取るデータは、実態を明らかにするとともに、将来の経営の進め方、組織の運営、人的資源の活用などをより正しい方向に導いてくれるからである。

さらに言うなら、ビッグデータの分析によって、また、AIの活用によって経営成果が上がると考えていいのだろうか。測定方法やその背景にある分析の視点がブラックボックス化しているのだとすると、何を根拠として測定を行うかを100%システムに依存してしまうことになる。分析結果は得られるかもしれないが、その妥当性の検証を行うことなく測定結果に振り回されるという危険性がある。