意見をぶつけるというより「対話」に近い?

debateについて述べたので、日本語の「議論」を考える上で、debateと対で語られるdialogue(対話)についても触れておきます。

英語による対話の定義は、discussionの1形態で、2集団の間での課題を解決し、不同意を解消するためのフォーマルな討議というものですが、哲学者の鷲田清一氏の言を借りて哲学的な定義をすれば、「対話」は、ロゴス(言語と論理)を分かち合って学ぶプロセスであり、説得ではなく、自発的に意見を変えることを良しとし、それを負けとはせず、むしろ、新しい意見が出てくる可能性の追求と捉えられると言えるでしょう。

日本における「議論」は、一見、同意か不同意かを前提としたargumentを中心とした一群よりも、哲学的解釈の「対話」により近いように思えるかもしれません。しかし、argumentを中心とした一群も、dialogueも、個々が明確な意見を持ち、相手に異なる意見をぶつけ合うものであり、場(の空気)で徐々に参加者を縛り、「思いの共有化」と称して全員一致が望ましい状態であるように方向づける日本の「議論」とは異なると感じられるのではないでしょうか。

日本の会議がつまらない理由とは

しばしば日本人は論理的でないといわれますが、正確には、論理性がないのではなく、日本人の論理の組み立て方に特色があるということです。さらに問題は、その特色を意識することなく、それが万国共通であると考えることです。不可逆なグローバル化が加速化し、多様性を前提とし、そこから共通を模索する中で、日本人は自ら日本人の「議論」の特色を認識し、それを相対化する必要があるのです。

日本の社会での言語行為は、対話(ダイアローグ)の集積ではなく、独白(モノローグ)の連鎖の展開という特徴があります。また、日本の組織の会議とは、相手の発言を受けて行われるはずの次の発言が、明確な相手を意識したものではなく、独白のように発せられる参加者一人ひとりの揺れ動く思いや心情が、次々と置かれていく「場」と言えるのではないでしょうか。

この独白の連鎖は、思いや心情の分布状態を示しますが、単なるマッピングであり、相違を前提にした「議論」ではなく、意見の対立が顕在化することはありません。この構造の中で、各自は自分の位置を測り、自分の思いや心情を微修正し、それを何回か繰り返す過程で、参加者各自の思いや心情が「自ず」と「ある」しかるべき点に収斂(しゅうれん)する、すなわち、「私」が「われわれ」になるブラックボックスのようなプロセスがあると言うことができます。それを、日本人は「衆議一決」と言って尊んできたわけです。