行列に関わりたくない理由

行列が嫌いなものだから、週末に高速道路を使ってどこかへ遊びに行くこともない。渋滞にハマるのがイヤだし、その先に待っている行楽地での行列もイヤだからである。

東京ディズニーリゾートも行列が煩わしいので行かない。どんなになじみの店であってもミシュランの星がついたり、テレビで取り上げられたりして行列ができるようになってしまったら、落ち着くまでは足が遠のいてしまう。入ろうと思っていたラーメン屋に行列ができていた場合はすぐに諦めて、次の候補店に向かって歩き始める。

とにかく何があろうとも、行列が嫌いなのだ。なにより時間がもったいない。さらに、そこに並んでいるむさ苦しい男20人中19人がスマホを一心不乱に眺めている……みたいな状況が不気味で仕方がない。あの奇妙な一体感を醸し出している行列の一員になってしまうかと思うと、想像するだけでたまらなく惨めな気持ちになるのだ。

また、自意識過剰なのは重々承知したうえで付け加えると「あの人、わざわざ行列に並んでまでこの店のラーメンが食べたいのね。いい年したオッサンのくせに意地汚いわ」なんて思われていないだろうか、と不安になってしまうのである。

行列に充満する「苛立ちのオーラ」に耐えられない

「行列も思い出のひとつ!」「待つのも楽しい!」などとポジティブに捉えられる人ばかりなら、まだ救いようがある。ただ、行列は大概、どこか殺伐とした空気をはらんでいるものだ。

たとえばラーメン屋の行列だったら「ほら、そこのバカップル、なに食い終わってもペチャペチャしゃべっとるんじゃ、ボケ」「さっさと丼をカウンターにあげて、自分が食べていたスペースをふきんで拭いて出ていけよ!」「この店のルールを知らないのかよ。ケッ、トーシローが。お前らみたいなニワカ客が増えたから、俺たちのような常連がなかなか食えなくなったんだ」なんてことを考えて、“早く食え、すぐに店を出ろ”オーラを露骨に出す人をよく見かける。

行列には、こうした「苛立ちのオーラ」が充満していることが多く、ときには舌打ちまで聞こえてくる。そんな環境に身を置いていると、自分がどんどんやさぐれていくのが実感でき、逃げ出したくなるのである。

このような考え方なので、絶対に混んでいることがわかっている場所に出向くことがない。そのため、本当は鑑賞したい「興福寺展」や「フェルメール展」などを観ることができず、損しているのかもしれない。とはいえ、どうせ出向いたとしても、何時間も待たされたあげく、結局「いちばんよく見えたのは他人の背中だった」みたいな結果に終わるのがわかっている。

それならば、多少高額でも美術関連の書籍を1冊購入して、家でじっくりと眺めることを選択してしまう。興福寺の阿修羅像にしても、わざわざ混雑している東京で見るより、ローシーズンに奈良の興福寺まで出かけてしまえば、それこそ30分でも1時間でも阿修羅の姿を眺め続けられる。