それにしてもふしぎなのは、そのような執事の性格が、どのように成立しているのかということである。
『日の名残り』は、間違いなく、英国の文化の精髄を描いたものだと言っていいだろう。かの国には、自己を厳しく律する倫理観という伝統があり、その点を的確にとらえたからこそ、『日の名残り』は英国の人々の心をつかんだ。
一方で、執事の姿には、カズオ・イシグロさんの目を通して、日本的な人間観の影響があるとも考えられる。執事の厳しい倫理観は、幼少期に日本から移住した作家の目を通して、初めて発見できたのではないか。あくまでも寡黙で、禁欲的な執事の人物像は、英国と日本が出合ってこそ生まれたのである。
カズオ・イシグロさんは、デビューからしばらく、日本をモティーフにした作品を書いていた時期があった。それから、次第に英国、さらには普遍的なテーマを扱った小説へと移っていった。
人間の脳は、自分自身を見つめる「メタ認知」において、他者の視点を必要とする。自分の1番いいところも、欠点も、他者という「鏡」があって初めて見えてくる。
日本という国のいいところも同じかもしれない。カズオ・イシグロさんが『日の名残り』で英国文化の最良の部分を描いたように、日本の美質もまた、外からの目を通して発見される側面がある。
世界中を人が行き交う時代、独自の文化を慈しむためにも、時には自分たちの姿を他者という鏡に映してみることの大切さを、『日の名残り』は教えてくれる。