さらに秀吉が会津に入る段取りとなり、「いつ城を明け渡してくださるか」という問いに、小十郎は事もなげに返答してみせた。「黒川城(のち会津若松城)をはじめ、ほかの城も、すでに空けてございます。城番の者こそおりますが、明日にも明け渡しできます」
これらの対外交渉が、政宗の指示によるものなのか、小十郎の判断によるものかは、史料からは汲み取りにくい。おそらくは政宗の指示を、的確に、そして大胆に、堂々と実行してみせたのだろう。
この交渉を目の当たりにした使者の吉継だけでなく、秀吉も「伊達政宗、片倉小十郎、ただ者ではない」と感嘆した。この対外交渉により、仙台藩外での小十郎の評価は高まった。秀吉から大名に取り立てられかけたこともあったという。
仙台藩内においても、片倉家は1万3千石を領する大名並で、「仙台藩第二の城」白石城を預かっていた。
白石城は、江戸時代初期の「一国一城令」の例外としてあつかわれた。その城主が片倉家だったからにほかならない。秀吉も、そして徳川家康も、「仙台藩の片倉家」に一目置いていた証拠だ。
片倉家は、大名として、いつ独立してもいいほどの存在だった。それでも片倉家は独立を望まなかった。なぜ独立しなかったのだろうか。いわば、いつでも独立できるだけの技術をもった大手電機メーカーのコンピューター・プログラマーが、みずからIT企業を興すことなく、親会社に身を寄せつづけるようなもの。「寄らば大樹の陰」だったのか。
だが、もし片倉家が独立していたら、戦国乱世という「弱肉強食」の世界で、いつ餌食になるかわからなかった。徳川の世でも、いつ改易の憂き目にあうかわからなかった。「ナンバー2」で生き延びることこそ、いちばん賢い方法なのだ、と計算ずくだったのではないか。