例えば、多くのキリスト教系の名門校は築地で創始されている。

居留地設置の翌1870年、ジュリア・カロザースがA六番女学校を開校した。築地でもほぼ最初の洋館で見物人が絶えず、特にクリスマス行事の際には多くの人が集まった。同校が他のミッションスクールと合同し、最終的に櫻井女学校と合同して麹町にできたのが女子御三家のひとつ、女子学院である。

ミッション系大学が多く生まれた理由

そして、ジュリアの夫クリストファーの英学塾が発展したのが築地大学校だ。1885年に刊行された下村泰大(編)『東京留学独案内』を見ると、「読方、書法、英語会話、算術代数(二次方程式まで)、幾何学、政事地理、天然地理」の入学試験が課されている。明治初期の頂点校であったことをうかがわせる試験内容だ。築地大学校はその後、ほかの神学校などと合併を繰り返し、明治学院へと発展した。

また、白い髭をたくわえたアメリカ人が黒服に身を包み、雨の日も風の日も夕方になると築地を散歩する姿も見られた。立教学校を創設したチャニング・ウィリアムズである。同校は聖書と英学の教育を行い、明治期には特に外交官を多く輩出した。

ウィリアムズは自分の名前が後世に残ることを嫌い、早くから遺書をしたため、自身の日記や説教メモなどを焼却するよう指示している。写真撮影も極端に嫌ったため、信者の中にはウィリアムズが落とした髭を保存する者までいたという。1913年に日本聖公会有志が米国リッチモンドの墓地に捧げた追慕碑には「道を伝えて己を伝えず」と刻まれた。立教の池袋への移転は関東大震災で築地の校舎を失ってからのことだ。

聖路加国際病院も、聖ルカという名が冠されていることから分かる通り、居留地で宣教師が始めた健康社築地病院が元になっている。