開国と共に流れ込んだ欧米文化に加え、もうひとつ、築地の磁場を決定づけていたものがある。海軍の存在だ。

幕末、幕府が近代的な戦闘訓練のために築地に講武所を置き、それが維新以後も引き継がれた。旧尾張藩蔵屋敷が海軍本省となり、芸州藩屋敷の跡に海軍兵学校が作られた。ちなみに、銀座のみゆき通りは、明治天皇が兵学校を訪れた時に通ったことからその名が付けられた。現在の国立がん研究センター中央病院は海軍軍医学校があった場所である。そして、関東大震災後、市場が移設されたのも海軍施設の焼け跡だったのである。

戦前、築地の料亭で働いていた女性の語りがある。戦後に疎開先から戻り、勧められて赤坂に自分の店を出したのだが、当初は「都落ち」のように思ったという。「海軍の築地」に対し、「陸軍の赤坂」はなんとも野暮ったく感じられたのだ。彼女の体感では、赤坂の格が現在のように上がったのは東京オリンピックの頃からである。

築地の先鋭化した「地域」意識

オードリーの若林正恭さんは、幼少期を入船や明石町で過ごした。築地市場から本願寺をはさんですぐの場所で、まさに居留地があったあたりだ。しかし、「築地出身です」と言うと、築地市場の人から「入船や明石町は築地ではない」と言われたことがあるという。

数百メートル単位の地域認識は、地方や郊外にはない東京の特徴だ。信号ひとつ渡るだけで異なる帰属意識地域がある。だが築地の場合、それに加えて、日本橋由来の魚河岸の記憶と居留地由来の開化の記憶が競合し、より先鋭化した地域認識が生み出された。そして、江戸ノスタルジーの下で、前者が強調され、後者は住人たちにも忘却されつつあるのだ。

「市場は豊洲に移転するが、築地のブランドも大切にする」――いったい何が築地のブランドとして想像されているのかはわからない。「食のテーマパーク」といった言葉が聞こえてくるので、「築地=魚河岸」のイメージが中心に据えられ、お台場・大江戸温泉物語のフードコートを拡大したようなものになってしまうかもしれない。

江戸以来、世界有数の大都市として発展し続けてきたからこそ、築地に限らず、東京の街はどこも多様な記憶と資源を有している。だが、街をひとつのイメージに集約するのは、こうした多様性を失わせてしまう。

江戸は、現在から見て時間的に遠いがゆえに甘美に見える。しかし、近過去を無視して「観光客向け江戸ロマン」に浸るのは、結局、街を殺すことにほかならないのである。

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