もうひとつは、“映画”を「多額の製作費を投じた映像作品」として捉える経済的な側面だ。

これまで映画がドラマと異なっていたのは、予算規模とそれによる作品の質だ。ハリウッド映画では、予算が2億ドル(約220億円)を超すブロックバスターも珍しくなく、それによって派手なVFXやアクションが可能となっている。国内のマーケットを中心とする日本では、実写映画の場合は多くても20億円ほど、スタジオジブリ作品でも40億円ほどだったと言われている。

こうした予算規模を可能とするのは、入場者からそれぞれ料金を取る映画興行の制度だ。リスクも大きいが、広告総量が決まっているテレビドラマ(やテレビ映画)ではそこまでの予算を捻出することはできない。『シン・ゴジラ』をテレビドラマで創るのは不可能なのだ。加えて、ハリウッドのようにグローバル・マーケットに打って出れば、より多くの製作費の調達も可能となる。興行を軸とするからこそ、“映画”が可能だったのである。

しかしネットフリックスは、テレビ放送やビデオ・DVDが決して超えられなかったこの壁を打ち破った。例えば、前述したポン・ジュノ監督『オクジャ』の予算は、5000万ドル(約55億円)だと言われる。ハリウッドのブロックバスターほどではないが、日本よりも映画マーケットが小さい韓国映画界では決して準備できる額ではない。無論、日本でも不可能だ。

これを可能にしたのは、ネットフリックスのグローバル展開だ。現在190カ国でサービスを展開し、加入者数は1億人を突破、アメリカではつい最近ケーブルテレビの加入者を上回ったことがニュースとなった。今年の第1四半期(1~3月)には加入者が495万人も増加し、その期間の売上高は26億4000万ドル(約2900億円)にも達した。昨年の日本映画界の総興行収入が過去最高の2355億円であることを考えると、その額がいかに莫大であるかがわかるだろう。「多額の製作費を投じた映像作品」は、もはや映画館だけの専売特許ではなくなったのである。

「高解像度の映像作品」と「多額の製作費を投じた映像作品」──映画館の“映画”は、それまでの特権性を失いつつあるのが実状だ。

「エジソン式映画」の逆襲が始まった

そもそも映画の歴史をさかのぼれば、ふたつの源流に行き着く。

ひとつが、フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフだ。1895年12月末、動く映像がスクリーンに上映されたことが“映画”の始まりだとされている。それは、動く映像(動画)の発明だけでなく、複数の観客が同じ空間で同じ映像を同時に観るという映画館を制度化したからでもあった。つまり、映像技術と上映制度(文化)の両者をともに成立させたからこそ、“映画”の始まりだとされる。

もうひとつは、アメリカのトーマス・エジソンによるキネトスコープだ。エジソンがこの発明の特許を取得したのは、リュミエールのシネマトグラフより4年早い1891年のことだ。キネトスコープは、木製の箱の上部についた覗き穴から箱の中で連続して動くフィルム=映像を観る方式だった。1894年には、ニューヨークのブロードウェイにキネトスコープ・パーラーがオープンし、1896年には日本にも輸入されている。

キネトスコープ

しかし、結果的にはシネマトグラフが生き残り、キネトスコープは姿を消した。人類がシネマトグラフを選んだ理由は、極めて素朴だ。1秒間に16~24枚の35ミリフィルムを使う映画は、長らく量産において多くのコストを要したからだ。一度にひとりしか観ることのできないキネトスコープよりも、同時に複数の人間が観られるシネマトグラフ=興行のほうが、経済合理性において優れていたのである。

テレビの浸透はこの映画の発明から60~70年後、ビデオの浸透は85~95年後だ。ローコストの映像複製技術がなかなか発明されず、さらに解像度でも勝っていたことによって、写真(コピーメディア)と演劇の中間にあるかのような制度の映画興行──コピーメディアを集団で観るという奇妙な形式が、保持され続けたのである。

しかし、ネットフリックスをはじめとする動画配信サービスは、この長らく続いてきた映画興行の形式に伍するものとして存在感を高めている。シネマトグラフ的映画(映画興行)が、キネトスコープ的映画(ネットフリックス)によって完全に相対化されたのである。結果、“映画”はより多元的な意味を持ちつつある。

フランス国立映画センター(CNC)のクリストフ・タルデューは、カンヌ映画祭に対するネットフリックスの姿勢に対して「彼らは、完全にアメリカの文化帝国主義の表れだ」と不満を表明し(https://www.nytimes.com/2017/05/16/movies/why-the-netflix-cannes-clash-couldnt-be-avoided.html)、カンヌ映画祭で審査委員長を務めたスペインの映画監督ペドロ・アルモドヴァルも、「映画は常に大きなスクリーンで観られるべきだ」と主張した。そうしたある種の保守的かつ情緒的な反応は、映画興行を軸に続いてきた“映画”の文化的側面を表すものだと言える。

ただし、その旗色は決して明るいとは言えない。音楽メディアに目を移せば、レコードはCDに、CDは配信に取って代わられてきた。マルクス経済学を持ち出すまでもなく、文化の大半は経済合理性や利便性によって大きく左右されてきた。

もちろん、映画館がなくなることはないだろう。しかし“映画”のあり方、より具体的には「動画配信サービス時代において、“映画”とは何か?」という議題は、これからさらに議論を重ねられることになるだろう。ネットフリックスとカンヌ映画祭の対立は、そうした“映画”がこの10年ほど抱えていた軋轢が、わかりやすいかたちで表面化した事態なのである。

(写真=時事通信フォト)
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