映画館と他の映像メディアの軋轢は、いまに始まったことではない。日本の映画史を振り返っても、映画館は常に他メディアに相対化され続けてきた。50年代後半以降のテレビの浸透、80年代以降のビデオとレーザーディスク、90年代の多チャンネル化、00年代のDVDとBlu-ray、そして10年代の動画配信サービスという流れだ。
そのとき、映画館と他メディアは必ずしも衝突ばかりしていたわけでもない。テレビの登場によって映画館の入場者は60年代前半に激減したが、テレビ創生期を支えたのは映画会社やその人材だった。80年代以降のビデオグラム売り上げは、そもそもリスクの高い興行を中心とする映画にとっては、新たな収入源としての役割を果たしてもきた。また、フィルムで撮影された「テレビ映画」というカテゴリーも海外では一般的だった(よく知られるのは、日本では劇場公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督のデビュー作『激突』や、冷戦時代の米ソの核戦争を描いた『ザ・デイ・アフター』などだ)。
日本では、フランスのように法制化はされてはいないが、映画館での公開から2次利用までの期間に暗黙のルールがある。洋画は公開から4カ月後、邦画は半年後にDVDが発売され、地上波のテレビ放映は1年後であることが一般的だ(例外もある)。ネットフリックスやAmazonビデオなどでの配信は、(早いケースでは)ビデオ発売と同じタイミングだ。
しかし、ネットフリックスのオリジナル映画にはそうした不文律は通用しない。実際日本でも今年5月に、ネットフリックスオリジナルのアニメ映画『BLAME!』が配信と劇場で同時に公開された。劇場公開の規模は26スクリーンと小さく、2週間という期間限定でもあった。フランスや韓国のような論争が生じなかったのは、当初から配給会社と映画館が落としどころを探ったからだろう。
技術革新によって失われたアドバンテージ
フランス、韓国、日本におけるネットフリックスと映画館の関係についてそれぞれ確認してきたが、これらはテレビやビデオが登場したときにはさほど生じなかった問題だ。そこには、2010年代だからこその“映画”を取り巻く状況がある。それは「映画のデジタル化」という問題に集約されるが、ふたつの具体的な側面に切り分けるとわかりやすい。
ひとつは、“映画”を「高解像度の映像作品」と捉える技術的側面だ。
00年代後半以降、映画はフィルムからデジタルに舵を切った。それと同期するかのように、テレビもフルHD(2K)に変わっていった。地上波デジタル放送に完全移行したのは、日本では2011年4月だ。結果、映画館とテレビの映像の解像度にはほぼ差がなくなった。
これは映像(動画)の技術史においては、実は大きな転換だ。テレビやビデオテープ、DVDなどが登場してきても、映画(館)ではフィルムによる解像度という決定的なアドバンテージがあった。しかし、もはや画質に優劣はなく、4Kテレビも主流になっている。大画面テレビを使ったホームシアターのハードルは、格段に下がった。結果、「高解像度の映像作品」を観る場としての映画館のアドバンテージは、以前よりもかなり失われた。
現在の映画館のテレビとの差異は、テレビ以上の大画面や音響、暗闇、他者といっしょに観る──こうした臨場感にある。それらは、ホームシアターでは到達できない要素だ。この10年ほど、3Dや4D映画、爆音上映、応援上映など、観賞者の体験に訴求する上映方式が注目されてきたのも、映画館が画質(解像度)において映像メディアとしての価値を相対的に低下させたからだ。
しかし、そうした差異は同時に映画館のハンディでもある。わざわざ映画館におもむいて入場料を支払わなければならず、準備をしない限りは好きな時間や座席で観ることはできない。また、周囲の客のマナーが悪いなど不確定な要素もある。映像作品を観ることだけを目的とするならば、不合理な要素も少なくない。その点、動画配信は映像作品を観ることに特化したシステムだ。大画面ではないが、映像の解像度は映画館と同じで、かつ料金も安く、自分が好きなタイミングで何度でも観られる。