こうの史代の漫画作品『夕凪の街 桜の国』には、1955年頃の「相生通り」が描かれているが、その時点では、原爆スラムという蔑称は一般的ではなかった。

『夕凪の街 桜の国』

ここで、1965年の中国新聞に載った記事が参照される。バラック集落を原爆スラムという呼称で括ることを提案した当時の広島市議会議員の発言から、広島市が作成した不法バラックに関する内部資料で、原爆スラムが「都市計画実施上の最大のガン」で「社会悪の温床」と記述されていたことが語られる。もっとも、後者の犯罪発生率は他の地域と大差なく、問題は木造家屋が密集しているスラム特有の問題……頻発する火事であった。

大火で焼け出されたスナック経営者や、4人の子どもに先立たれたが、今は市営基町高層アパートで余生を送っている女性の回想と、冒頭と同じ河川敷でバーベキューを楽しんでいる地元のヤンキーたちの姿が対比される。彼らは原爆スラムを「都市伝説」だと笑うが、その平和な風景と、地元の画家が描いた原爆スラムの絵がさらに対比され、反復される。

最後に残った「相生通り」も、1969年に市営基町高層アパートが着工し、1978年の完成と共に消滅した。

64年生まれディレクターの“曖昧”な質問

「復興を労働力として支え、復興が生み出した立ち退き者を受け入れ、そして、復興の名のもとに消えていった」と総括した矢部だが、改めて、すべての登場人物に「相生通りの頃と、現在と、どっちが幸せですか?」と問いかける。この質問のなんとも言えない曖昧さは、前述の鈴木のような「正しい」ドキュメンタリーでは完全に失格だろう。原爆スラムという対象への問題意識が欠如している、と。

だが、1964年生まれの矢部の世代には、戦中派のような問題意識を持つことはできない。それは自分の世代にとって、むしろ不誠実だと思っているのかもしれない。

「思えば、敗戦直後の日本は、誰もが焼け跡のバラックから出発し、誰もが生きる事に必死だった。原爆スラムの記憶は日本の戦後そのものではないか?」

矢部の最後のつぶやきは、原爆スラムという存在の特殊性を削ぎ落とす意図があるのだろうが、本当にそうならば、このテレビドキュメンタリーは徒労でしかない。

広島市が意図的に原爆を利用し、国からスラムクリアランスの補助金を引き出そうとしていた、という事実。そして、被爆者以外の生活者が存在しなかったかのように、都市の記憶も改竄した、という事実。

一見、ゆるくぼんやりとした印象を受ける60分の映像は、この二つの事実から逆算していくように構成されている。付け加えると「原爆スラムの後日談」は、NHK広島放送局が2013年に制作した地域発ドラマ『ドキュメンタリードラマ 基町アパート』で、フィクションとして語られている。中国残留孤児の問題と絡めて。

問題意識と怒りだけでは伝わらないものがある

矢部裕一は『NHKスペシャル』の「新・シルクロード」シリーズにも関わっていたから、「正しい」テレビドキュメンタリーの手法も心得ているはずだが、「新・シルクロード—激動の大地をゆく」の単行本では、ひどく青臭い感想を記していた。

自分たち取材班は一瞬の通過者にすぎないが、その一瞬だけでも当事者として関わりたい、近づきたい、と。

筆者はその後の仕事をすべて観ているわけではない。しかし、「“原爆スラム”と呼ばれた街で」と、同じく矢部が担当した昨年8月の『ETV特集』「54枚の写真~長崎・被爆者を訪ねて~」は、どちらも絡み合う「語り」と「映像」で「時間」を捉えようとする「正しい」手法が陥りがちな「表現」への欲望に対して慎重な印象を受けた。言い換えると、捉えようとする「時間」を、対象に関わった市井の人々の日常生活へ絞り込むことで、政治的イデオロギーへ回収されることを避けたい、という思惑が見える。

鈴木の映像と比べれば青臭く、甘いことは否めない。だが、イデオロギー的な問題意識を前面に出す「表現」に、辟易しているテレビドキュメンタリー愛好者も確かにいるのだ。

もちろん、「正しい」手法も重要であることに変わりはないが、問題意識と怒りだけでは、伝わらない事実もある。