6月15日は『ETV特集』(Eテレ)「“原爆スラム”と呼ばれた街で」の再放送を観ていた。
矢部裕一ディレクターの一人称で語られる映像は、前述の「もうひとつのヒロシマ~88歳ディレクター 執念の取材~」と比べると「ゆるい」。しかし、冒頭、河川敷でバーベキューを楽しんでいる地元のヤンキーたちが原爆スラムの存在すら知らないと語る場面から入ったのは、このドキュメンタリーの意図をはっきりと感じさせた。
そして、矢部が最初に思い出したのは、映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)だ。
『仁義なき戦い』シリーズの大半は東映京都撮影所周辺で撮影されたが、この作品だけ広島ロケが行われている。1973年の広島にはまだ、辛うじて原爆スラムが残っており、いくつかの風景が「1950年頃の広島」として映っている。
高度経済成長期のバラック住民たちを訪ね歩く
1978年まで、広島の爆心地近くの川岸に、家を失った人々の集落があった。
1945年9月、原爆投下に続く枕崎台風の惨禍の後、広島大本営第五師団司令部の跡地に越冬用バラックを建てたのが発端で、これが「相生通り」と呼ばれるバラック集落へ発展した。現在の相生通りとは異なり、本川沿いの基町一帯に存在していた集落は1950年代に入ると、狭い路地の両側に老朽化したバラックと不法家屋が幾重にも立ち並ぶ迷路のようなスラムと化した。
映像はかつて「相生通り」で暮らしていた人々の「現在」を追う形で進行していくが、手がかりとなるのは『日本の素顔』や『現代の映像』で撮ったわずかな映像と、1970年に広島大学が学術調査で作成した700戸の見取り図だけだ。
大きさや形は不揃いで、ひとつとして同じ建物はなかったが、中にはカラーテレビ、ステレオ、三面鏡、洋酒棚、ミシン、洗濯機、ピアノ……外観は不格好だが、高度成長期の庶民生活はそれなりに充実していた。
原爆スラムという言葉のイメージからかけ離れた生活風景に驚いた矢部は、当時の住人たちを訪ね歩く。
当たり前のことだが、原爆スラムには、被爆者だけが住んでいたわけではなかった。
秋田からやってきた廃品回収業の裕福な一家。焼酎ばかり飲んでいたアル中のおっちゃん。郊外の山村からやってきた失対労務者(失業者救済対策としての公共事業に従事する労働者)の大家族。在日コリアン2世の入市被爆者……それぞれの人生を辿っていくうちに、戦後の復興と共に消滅していくはずの原爆スラムがいつの間にか増殖していた、という現象に突き当たる。
復興に伴い、市内に点在していた他のバラック集落が急速に整理され、立ち退きを余儀なくされた人々が一時避難的に「相生通り」へ移り住んだのが原因だった。かつての移住者の一人であるおばちゃんとの会話は、矢部がバラック増築に用いる鎹(かすがい)を知らなかったので、まるで『ドキュメント72時間』のように「ゆるい」のだが、ぼんやりと疑問が浮かび上がってくる。
「相生通り」の住人たちは、自分たちの街を原爆スラムとは呼ばない。