私は小学2年に鎌倉で終戦を迎えました。鎌倉は直接の空襲こそなかったですが、横浜、川崎などの工業地帯は激しい空襲に遭い、上空をB29が頻繁に通過していきました。

写真提供:近現代PL/AFLO

私の場合、本当に大変だったのは、終戦後です。当時の様子は、説明してもなかなか今の人には伝わらないでしょう。強いて言うなら、「3.11」直後のような状態。空襲を受けた大都市は、南三陸のようにがれきの山。直接被害がない地域も、商店の棚は空っぽでした。しかも、食糧不足は戦後2~3年続いたわけです。

田舎に食料があっても、鉄道網が寸断されて、都市部に入ってこない。空襲で住む家もない。そんな中、数百万人の在外日本人・日本兵が引き揚げてきたのです。別荘地の邸宅はどこも、焼け出された複数の家族が、身を寄せ合って住んでいました。

家族で撮った当時の写真が1枚だけ残っていますが、大人も子供もガリガリにやせ細って、まるで難民キャンプのようです。口にできたものといえば、サツマイモを干した自家製の乾燥芋と、庭の家庭菜園で栽培したわずかな野菜くらいでした。

食べ物がないことの苦しさは、今の子にはわからないでしょう。ずっと同じメニューが続くと、栄養が偏って、体が受け付けなくなるのです。味を変えようにも、塩もみそもない。そんな状況がずっと続きました。

今の若い人たちは「上の世代から戦争の話を聞いていない」というけれど、それは当然です。私の10歳上の兄は予科練に行っていましたが、終戦後も決してその話をしようとはしませんでした。