僕は父の仕事の関係で、終戦を旧満州の奉天で迎えました。6歳のときのことです。当時の満州には100万人の日本人が住んでいました。
日本人の居住区は高い壁でぐるりと囲まれて、入り口を日本軍の兵隊が警備していました。大人からは、子供は居住区から出るなと言われていましたが、よく外の中国人街に遊びに行って、怒られましたね。終戦前の満州は食料こそ不足していたものの、空襲などはあまり無く比較的平和でした。
でも、1944年の秋くらいから、ちょっとずつ町の雰囲気が変わり始めました。町へ出ると、日本人を見る周囲の中国人や朝鮮人たちの目つきが、険しくなってきた。以前は、やさしく声をかけてくれた近所の中国人のおじさんが、にらみつけ、口もきいてくれなくなった。
8月15日。私が社宅の庭で遊んでいると、居住区の外が急に騒がしくなって、爆竹の音が鳴り、まるでお祭りのような騒ぎになったんです。そして、その日の夕方、中国人や朝鮮人たちが日本人居住区になだれ込んできました。母は私と弟たちを家の中に引き込み、家具でドアをふさぎました。その日は父が仕事で不在。町中で略奪が起き、日本人の家が襲撃されて、家屋を壊され、金品は略奪されました。弟たちと身を寄せ合って、不安な夜を過ごしたのを覚えています。
終戦を境に、日本人は道を歩いているだけで、つばを吐きかけられたり、石をぶつけられたりするようになりました。
さらにソ連軍が侵攻し、国民党と共産党の内戦にも巻き込まれ、多くの日本人は戦火を逃れ町を転々とすることを余儀なくされたのです。