過酷な環境の中で、うちの弟たちも栄養失調になり、腕や足が割り箸のように細くなり、あばらが浮き出てきました。住む場所すら失った日本人が口にできるのは、コーリャンという牛馬のエサくらい。それをみんなで分けて、飢えをしのぎました。こうした状態がいつまで続くのか、誰にもわかりませんでした。満州の冬は零下30℃まで気温が下がります。着の身着のままの日本人は、飢えと寒さと疲労で、1人、また1人と倒れていきました。

いつ死ぬかわからない状況が続くと、人の心は鬼のようになっていきます。死体を見つけると、「死んでしまった人に服はいらない」ということで、衣服を剥がして自分が着たり、食べ物がないかとポケットをまさぐったりするんです。ご遺体に手を合わせるということすら、できなくなってしまう。

あの頃は、みんな自分の家族を守ることだけで必死だった。だからこそ、生き残った人たちには負い目があるんです。“弱っていたあのおじいさんに自分の食べ物を分けてあげたら、一緒に帰国できただろうか”、そんなことを今でも考え、“自分はずるいから生きて帰れたのでは”と感じてしまいます。

こうした混乱の中で、子供連れの母親に、「あなたの子供を買うよ」と声をかけてくる中国人がいました。自分の子供を売るというのは、現代の感覚からすると想像もできないことですが、家族全員が生きて帰れなくても、売ったこの子は助かるのでは、という希望に託したい気持ちがあったのです。私の家族のところにも「子供を売らないか」という人が来ました。母が「4人とも全部私の子供だから、絶対に離さない」と言ってくれた。でも、涙ながらに「お願いします」と子供を委ねた人も少なくありませんでしたね。買われた子は中国残留孤児となりました。各地を逃げ回りながら1年ほど経った頃、「葫芦島(ころとう)」という港へ行けば、引き揚げ船に乗り込めると聞き、何とかたどりついて帰国できたのです。