私にそう確信させたのは、終戦時の“教科書の墨塗り”です。当時は学校の先生よりも国定教科書のほうが偉かったんですが、進駐軍の指令で、“軍国主義的な内容”とされた箇所を墨汁で塗りつぶしました。それまで「鬼畜米英」がスローガンだった社会が、敗戦を境に「平和憲法万歳」の世に180度変わっていくのを目の当たりにしました。

戦争というと、遠い過去のような気がしますが、似たような集団心理は時々発生します。私は1960年代末の大学紛争のときにそれを感じました。私が研究室に居ると、ヘルメットをかぶって、ゲバ棒を持った学生たちが30人くらい雪崩(なだ)れ込んできて、「この非常時に何が研究か」と言うから驚きました。「非常時」なんて言葉は、まさしく戦中の軍国主義そのものです。それを戦争を批判する左翼が口にしたのです。

世間は形を変えて、自発的に暴走していきます。そして、その渦中にいるときは、異変に気付くことができません。学生運動もそうでした。

いまの若い親世代、子供世代には、平和なときに「自分にとって、何が一番大事なことなのか」を考えてほしい。戦争が始まると、それがわからなくなってしまい、社会の暴走に巻き込まれてしまいます。平和なときにこそ、考える軸を養ってほしい。

太平洋戦争で、誰も社会の暴走にブレーキをかけられず、その先に待っていたのは、多くの国民が道具として使い捨てられる社会でした。

残念なことですが、戦争体験はいくら言葉を尽くしても伝わりません。しかし、言葉が無力であるということは、同時に私たちに何を見るべきかを教えてくれます。大事なのは言葉ではなく、行動です。権力者が何を言っているかではなく、何をやっているかをよく見てください。そして、世の中をつくるのも、私たちが何をするかにかかっているのです。

養老孟司
1937年、神奈川県生まれ。解剖学者。東京大学名誉教授。小学校2年生のときに終戦を迎え、教科書の墨塗りが人生に大きな影響を与える。
 
(呉琢磨=構成 小原孝博=撮影)
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