なぜかと考えると、理由は2つあります。1つは戦争をいくら言葉にしても、同じ体験をした者にしか伝わらないという諦めがあるから。もう1つは、社会の価値観があまりにも変わってしまい、話す立場がなくなったからです。社会が戦争自体を完全に否定したため、参加した人々は何も語れなくなったのです。
戦争が言葉にできないというのは、赤の他人の「死」が実感できないということに似ています。人が「死」を意識するのは、身近な人が死んだときくらいではないでしょうか。戦争も映像や記録はたくさんありますが、いくら詳しく話を聞いても、赤の他人の経験は決してリアルな実感を与えてはくれません。
ところが、言葉を尽くしても、伝わらないことがある、ということを理解していない日本人が増えてきた。そのことに、危機感を覚えます。
政治家で言えば、森喜朗、小渕恵三、橋本龍太郎、河野洋平あたりまでが、「言葉を尽くしても伝わらない戦争体験」をギリギリ共有していた。彼らはみな私と同じ、戦争を知っている最後の世代で、自分たちより上の世代が見たであろう、戦場の惨劇を想像できる政治家でした。われわれより後の戦後世代になると、もう感覚がまるで違う。知識のうえで戦争を知ったような気になっている。言葉でわかると勘違いしているのです。
こうした人たちが「わかった」という誤った確信を基に、世の中を動かし始めたら、どうなるでしょうか。
世間が変わるのは、あっという間です。いま正義だといわれている価値観なんて、どうせ社会が変われば簡単にひっくり返るのです。