閉塞感をなくす「働き方改革」

早大理工学部の土木工学科へ進むと、当然、漕艇部に誘われたが断った。欧米では社会人のクラブチームが強く、五輪にも出る。ちょうど東京五輪の元日本代表らがクラブチームをつくったので、高校時代の仲間たちと入る。だが、どうしても社会人とリズムが合わず、結局はやめた。

就職は、土木工学科からは土建会社や官庁が多かったが、理系の採用を始めた東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)を選ぶ。70年4月に入社し、新人研修を終え、7月に火災保険業務と火災新種業務の担当部で火災業務課へ配属された。担当は、企業向けに、工事の事故や台風、地震などの損害が対象の特殊な保険だ。

「日本列島改造」のブームで、日本中でダムや橋、道路やトンネルが造られていた。ヘルメットをかぶって、各地の現場で査定する。次は石油危機で、エンジニアリング会社が中近東へプラント輸出を始めたので、その建設保険も担当した。数少なかった先輩が異動でいなくなり、入社3年目から中近東へ出張に出る。相手国との契約交渉に同席し、工事の遅延や資材の高騰などがあった際の責任範囲やリスクの評価を、手伝った。

どれもこれも小さな分野だが、「上善如水」でこなしていく。すべてが損害保険の原点と言え、この課で過ごした7年間が、その後の仕事に大きく役立った。

その後、横浜支店で企業営業を経験し、結婚もして本店の営業部門へ戻る。37歳で営業の課長となり、その後が冒頭の火災新種業務部。再び営業部門へ出て、人材の育成に力を注ぎ、海外に子会社をつくり、ロンドンにも駐在したが、詳しくは次号で触れる。

社長になる前で強く印象に残るのは、事務作業とシステムの抜本改革だ。常務になって2年目の03年夏から手がけ、いまで言う「働き方改革」に大きく先行した。

損保は2000年に自由化が始まり、激しいたたき合いとなり、個人向けの各種保険に様々な「おまけ」を付け、営業担当も説明できないほど複雑化。事務規定が次々に変わり、作業は膨れ上がる。当然、社内に閉塞感がたまる。事務とシステムを統括する立場に就くと、それが俯瞰してみえた。

閉塞感をなくすには、商品の構造を変えねばならないし、同時に事務やシステムも変えなければいけない。だから、03年暮れに「全部を一緒に変えて、会社を変えよう」と提案する。改革の流れは、自然に決まった。システムを変えて仕事を簡素化するのではなく、仕事のやり方やビジネスの進め方を変える。最大の苦労は、なぜそれが必要かを、全社に理解させることだった。でも、問題は浮き出ていたから、誰もが納得する。最後には評価システムも変え、「働き方改革」が完結する。

事務が、3割以上消えた。作業が減るのではない、不要な作業が消えたのだ。一般職と言われた女性陣の役割ががらりと変わり、男性陣がやっていた代理店の指導やお客への対応を受け持つ。社内や代理店の景色も、変わった。

07年6月に社長に就任。その半年前に表面化した保険金の不払いや保険料の取り過ぎの問題に、迅速に対応できたのも、この改革があったからだ。東日本大震災や熊本地震での被災者への対応も、同様だ。そして、いま社業が順調なのも、あのときに仕事のやり方を全部変えたからだ、と思う。

東京海上ホールディングス会長 隅 修三(すみ・しゅうぞう)
1947年、山口県生まれ。70年早稲田大学理工学部卒業、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)入社。95年本店営業第七部長、98年企業商品業務部長、2000年取締役ロンドン首席駐在員、02年常務、05年専務、07年社長。09年東京海上ホールディングス社長、13年より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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