日産を退職、中国へ

【田原】日産を辞めて中国へ行ったそうですね。なぜ中国だったのですか。

【杉江】中国語を話せるようになりたかったんです。英語はマストで、人生の中で話さざるを得ないときがいつか必ずやってきます。ならば、若いときに英語と別にもう1つ強いものをつくっておいたほうがいい。そう考えて注目したのが、世界でもっともネーティブスピーカーが多い言語である中国語でした。中国人のパワーを自分の味方にできたら、将来、きっと役に立つかなと。

【田原】いま販売しているのは日本とアメリカでしょう。中国語、役に立ってますか。

【杉江】はい。いまWHILLを量産しているのは台湾ですから。工場の人と中国語で会話すると、すぐ仲良くなれるし、裏でコソコソ話してもバレるぞというカマシにもなります(笑)。

田原総一朗
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。若手起業家との対談を収録した『起業のリアル』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】中国のどこに行ったのですか。

【杉江】日本人が誰もいないところがいいと思って南京に行きました。南京は上海から新幹線で2時間程度ですが、上海に日本人は10万~20万人いるのに、南京は300人しかいません。向こうでは、南京人と友達になってアパートを借りていました。彼らと遊んでいるうちに中国語も覚えました。結局、1年半くらい暮らしました。

【田原】南京というと、南京大虐殺が思い浮かびます。日本人だから暮らしにくいということはありましたか。

【杉江】僕が中国語で苦労しなくなってから、歴史の話題になったことはあります。日本の教科書にはそもそも載っているのかとか、日本人はどう思っているのかとか。そのときは、ちゃんと日本の教科書にも書いてあるし、僕らはしっかり認識している。と事実ベースで答えていました。ときどきそうした話になるけれど、日本人だからといって嫌な目に遭ったことはありません。むしろみんな良くしてくれて、僕が中国から旅立つときに「また戻ってこい」と言ってくれました。

【田原】向こうで仕事はしていたの?

【杉江】日本語の先生をしていました。とりあえず南京に来たものの、ビザもツテもない。どうやって暮らしていこうかと悩んでいろんな人に声をかけていたら、たまたまカフェで語学学校をやってる人に出会って、雇ってもらいました。そのころはまだ中国語ができなかったのですが、なんとかなっちゃいましたね(笑)。

【田原】月給はいくらくらいでした?

【杉江】5万~6万円です。南京では大学卒の初任給が2万円くらいでしたから、南京で生活する分には生活には困りませんでした。

自分の目で見ないと真実はわからない

【田原】中国の後はどこに?

【杉江】ラオスとパプアニューギニアとウズベキスタンとボリビアです。まだ日本に帰るつもりはなくて、どうせ世界を見るなら圧倒的に違う価値観のところにに行きたいなと。たとえばパプアニューギニアは、いまだに見つかっていない部族がいるほどで、原始的な生活をしている人々が大勢暮らしています。全裸で生きている人たちと一緒に暮らしたら、おもしろそうじゃないですか。そういう体験をしたくして、約半年生活しました。ワニ釣ったりして、楽しかったですよ。

【田原】パプアニューギニアで言葉はどうしたんですか。

【杉江】通じません(笑)。ただ、彼らは原始的なので語数が圧倒的に少ないんです。たとえば水に関する言葉は、ぜんぶ「ワスワス」です。体を洗うのも泳ぐのも「ワスワス」で済むから、細かいことがわからなくても、なんとなく伝わって生きていけました。

【田原】刺激的な生活ですね。ところで、もともとものづくりがしたかったわけでしょう。どうしてものをつくらないで世界を放浪していたのですか。

【杉江】ものをつくりたいという気持ちはありました。ただ、それ以上に、この世界はどうなっているのかなという思いが強かった。

【田原】どういうことですか。

【杉江】僕の学生時代に、小泉さんが靖国神社に参拝して北京が大暴動になったという報道がありました。そのときふと暴動って本当かなと疑問を抱いたんです。確かめるために自分の目で見ようと思って北京に行ってみたのですが、何も起きてない。何もなかったわけではないのかもしれませんが、街の人に聞いても、ほとんどの人は「何それ」という反応でした。このとき、世界には自分で足を運んで見てみないとわからないことがたくさんあると悟りました。会社を辞めてからの3年間は、それを確かめるための旅だったと思います。