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福島復興本社は第一原発から10km地点

【弘兼】東日本大震災の話に戻しましょう。石崎さんは震災が起きた当時、どのようなお立場だったのですか。

【石崎】あのときは東京本店で「立地地域部長」という役職に就いていました。福島をはじめ、東電の発電所がある地域と本社をつなぐ役割の部署です。揺れを感じた直後から、本店2階にできた非常災害対策本部に詰めることになりました。とはいえ、福島の現場と携帯電話は通じない。テレビ会議の回線がつながっていたので、非常災害対策本部の大きなテレビ会議の画面で、福島第一原発の所長だった吉田(昌郎・故人)の報告を聞いていました。だんだん事態が深刻になってきて、吉田が悲鳴のような声を出すのを見守るしかありませんでした。

【弘兼】まず一号機が爆発、続いて三号機、四号機も爆発した映像がテレビで流れました。

【石崎】私たちはテレビ会議をしていたので、その映像はリアルタイムで見ていません。

【弘兼】時間差があった。

【石崎】はい。皆さんが一斉に避難をされたので、私たちは自治体のところに人を派遣して、情報を提供することからはじめました。そして避難所ができてからは、お詫びに行った。それが3月20日ぐらいのことです。

【弘兼】当然、怒り、絶望している人と相対することになりますよね。

【石崎】体育館で段ボールの上で毛布にくるまっている人たち、みんな私が所長時代にお世話になって仲良くしていただいた人ばかりなんです。そういう人を目の当たりにして、顔を合わせたときの表情や目線が今でも脳裏にしっかりと焼きついています。いたたまれない気持ちでした。ただ、同時にこの人たちを置いて、自分が逃げてしまったら、人として許されず、地獄に落ちるとも思いました。覚悟が決まったのはそのときです。

【弘兼】震災の後、東京電力は非常に批判を受けました。

【石崎】ショックを受けたのは、知っている社員がぽつぽつと会社を辞めていったことです。中には自分が目をかけていた若手もいました。