子どものころは、引っ込み思案で、人前で話すのが苦手だった。小学6年のとき、先生に勧められて児童会長に立候補したが、演壇に上がったら、緊張のあまり記憶したはずの演説が出てこない。中学では意を決し、校内弁論大会に出て、3年のときに優勝した。こうして経験を積んでいくうちに、自分の意見や知識を人に伝えることが、むしろ自分に向いている、と知る。他人の評価など気にしないことも、身に付いていく。

国際財務開発室では、夜遅くまで議論や作業を重ね、深夜になってカラオケ店へ繰り出した。そこで仕事の話が弾むと、午前1時や2時に、また職場へ戻る。そんな夜も、少なくなかった。企画した案件は、ほぼ、そのまま銀行内を通る。担当の役員も部長も知らない世界で、おそらく、よその銀行の面々も「あそこは、何をやっているのか」と訝しがっていただろう。多くの企業でタクシー券が使い放題だったころ、全く別種の盛り上がりが続いた。

「自適其適」(自ら其の適を、適とす)――人は、本当に心に適ったことを、自らに適したこととして追求すべきだ、との意味だ。中国の古典『荘子』にある言葉で、他人の評価によって喜び、悲しむこともない、と説く。「やりたいこと」を、自他ともに求め続ける石田流は、この教えに重なる。

1946年1月、北海道函館市で生まれる。近くには、青函連絡船の乗員が多く住んでいた。船乗りの父も一時、連絡船の機関長だった。8歳の年の9月、台風の直撃で連絡船「洞爺丸」が遭難、港外へ避難したはずの4隻も沈没して、多数の死者・行方不明者が出た。外航船の船長に転じていた父は難に遭わなかったが、地域は悲しみに覆われた。これは、いまでも忘れられない出来事だ。