国際財務開発室などを経て、ロンドンの欧州東海銀行の頭取になった。2001年、東海が三和銀行、東洋信託銀行と経営を統合してUFJホールディングスができると、欧州の子会社同士の合併を進めるために、3度目のロンドンも経験した。その任を果たし、「そろそろ関係会社に出るのかな」と思っていた04年にかけて、東海東京証券の社長から電話が入り、「うちへきてくれ」と誘われた。

東海東京では、三和系の証券会社との合併が進んでいなかった。東海系と日興証券系が合併した会社で、それなりの規模があったから、小規模の三和系に主導権を握られることを嫌がる。もめているうちに、UFJは10%あった持ち株を半分売り、日興も10%の保有株を全部手放した。自然、独立色が強まり、「やってみる価値がある」と思う。古巣の「東海」の名が残っているところがここだけだった点も、心を動かした。

顧問、副社長を経て、05年3月に社長に就任、翌年にはCEOにもなった。転入してみると、社内はまだ「株屋さん」と言われた時代の文化のまま。日本の株式には詳しくても、世界の市場を知らない。「いまの時代、これでは生き残れない」と痛感したが、人材はいた。市場部門に集めて勉強させ、システムも拡充する。

全社の意識改革も急いだ。すぐに決めたのが「わくわくギネス」の開始。社員それぞれが、仕事以外の分野で「やってみたい」と思う目標を申告し、それに挑戦して実現したら表彰する制度だ。昨年はグループ2700人のうち約800人が申告し、「キリマンジャロの登頂」を目指して達成した女性が、金賞に輝いた。この制度の底流にも、「自適其適」がある。

東海東京フィナンシャル・ホールディングス社長CEO 石田建昭
1946年、北海道生まれ。68年小樽商科大学商学部卒業、東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)入行。92年欧州東海銀行頭取、94年取締役、96常務。98年東海投信投資顧問社長。04年東海東京証券入社、副社長を経て、05年社長。09年社名変更により現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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