函館中部高校から小樽商科大へ進み、ここでも「自適其適」を貫く。国際経済のゼミに入り、金・ドル本位制が揺らぐなか、図書館に届く東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の月報を読み、卒論のテーマに国際通貨制度を選ぶ。

自然、就職は東銀を希望した。ところが、入社試験が早かった東海の募集に誰も手を上げず、学生課が「誰か受けろ」と言い出す。聞くと、往復の飛行機代が出る、という。生まれてから、一度も飛行機に乗ったことがなかった。友人3人と一緒に「それならば」と思って応募し、学校推薦を得て札幌から名古屋へ飛び、試験を受けた。翌日、自分ともう1人に合格通知が届く。当時は、学校推薦を得て受けた先から内定が出ると、他社の試験は受けられない。「仕方ない」と思い、決めた。

意識を変える「わくわくギネス」

68年4月に入行し、名古屋市の内田橋支店に配属される。一緒に赴任した同期は名古屋大卒で、主要な部署を次々に経験し、2年ほどで転勤していった。自分はおカネを数える出納係に2年いて、窓口担当も務めて4年目に入る。「学歴による差別」を感じた。

そんなとき、若手の海外研修制度ができて、支店も受験者を出すように促された。条件を満たすのは、内田橋で自分を含めて数人。ただ、銀行には、そういう試験に落ちるとバツが付き、一生に影響すると言われた時代。誰も受けたがらず、上司に「もうバツが付いているのだから」と指名された。合格して、ロンドン支店へ8カ月いき、帰国後にバンコク勤務を告げられた。タイと米国の銀行と3社で金融会社をつくることが決まり、その準備と開業に、上司と2人で赴任する。主な仕事は日系企業への融資で、3年半いた。

本社へ戻った後、80年にロサンゼルスの加州東海銀行へ出向する。都市銀行の中で米銀の買収に出遅れ、「お前がいって、どこかを買ってこい」と送り出された。見つけ出して話をまとめたのが、アルハンブラにあるコンチネンタルバンク。個人取引が中心で、不動産担保ローンに強かったが、翌年の不動産不況で深い傷を負う。ロスには6年半いたが、焦げ付いたローンの処理が続く。