当時の銀座店は拡張前で、床面積は日本橋本店の半分ほどだったが、来店客は全国の三越店のなかで圧倒的に多く、「シャッターを開けると5万人」と言われた。この年のクリスマスイブに来店客を数えてみたら、予想をはるかに超えて、10万人を突破した。ゴールデンウイークにも、それに迫る数がきていただろう。
「狭い店だから、こんなにきていただくと、何かあると危ない」と思いつつ、顔にも言葉にも出さず、警戒を続けた。交替できていた警察官が、休憩時に「相田みつを展」の会場へいき、「いい文句があったので、カードを買ってきました」と言う。みると「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」とある。防犯の呼びかけにぴったり、というわけだ。
何も起こらず、ゴールデンウイークが終わる。当時、銀座地区の別の百貨店の店に売上高が負けていて、「銀座で一番」になることが宿願だった。ほどなく、こうした販促部隊の意欲が実り、「銀座一」が実現する。残念ながら、その後に抜き返されもしたが、自分たち裏方部隊も祝杯を挙げた。
百貨店では毎朝、開店時に入り口で店長以下が深くお辞儀をし、お客を迎える。その後、店長は店内巡回に入る。自分も、別ルートで回った。昼どきや夕方にも確認にいき、1日に3、4回。混雑する中元や歳暮の時季にはもっと多くなり、人波の整理も受け持つ。売り上げに直接には貢献できず、足跡も残らない仕事だが、そんなことは気にもならない。
「善行無轍迹」( 善く行く者は轍迹(てつせき)なし)――最善の歩き方は、轍のごとき跡を残さないことだ、との意味だ。中国の古典『老子』にある言葉で、立派な仕事をした人ほど自らを誇るような足跡は残さない、と説く。裏舞台で店の信用や実績を支えながら、記録にも残らない仕事を是として打ち込んだ石塚流は、この教えと重なる。
1949年9月、東京・田端で生まれる。一人っ子で、父は町工場で働いていた。母が選んだ隣町の小学校へ電車で通い、自宅から徒歩10分の開成中学、同高校を経て、東大文科I類へ進む。就職時は、まだ高度経済成長が続き、産業界は製造業が中心だった。ただ、「これからは消費、流通の時代がくる」と言われ始め、そんな気がしたので、百貨店を選んだ。三越を受けた理由は、オーナー家が経営をしていない点だった。