8日後に現地へ「僕が行かねば」

情報は断続的にしか入りませんでした。しかもより悪い知らせもありました。暴動の3日後の18日に、満州事変の発端となった「柳条湖事件」の記念日を迎えるというのです。現地では、より大きな反日デモが予想されました。破壊された店舗の写真を見たとき、私の頭に「こんなとき、塾長ならどうするか」という思いがよぎりました。すると、塾長の教えが、自然と口を突いて出てきたのです。

「大きな危機や大きなトラブルが起きたときは、トップが先頭を切らないかん。トップが現場に急行して、問題解決に当たらないかんのや」

会社の将来に対して、最も強い責任感と使命感を持っているのはトップです。現地が危険だから。状況が困難だから。そんな理由でトップが逃げれば、問題解決は絶対にできません。

「僕が行かないかんな」

部下たちは「いま行くのは危険すぎる」と反対しました。しかし、日本本社の社長が直接説明しない限り、現地の社員は安心できないだろうと思いました。ただし大勢を連れて行くのは危険です。建物が相当な被害を受けているということもあり、私は、建設担当の課長と2人での現地入りを決めました。

事件から8日後の23日、長沙空港に到着しました。通関で日本のパスポートを見せると、職員たちから「リーベンレン(日本人)」と声をかけられ、別室で手荷物の検査を受けました。これまで半年に一度は中国を訪れていましたが、いつもとは雰囲気が違う。これは警戒しなくてはいけないな、と思いました。

空港からは直接ホテルに向かいました。部屋は、用心のため中国人社員の名前で確保したものです。当時、平和堂の社員は、現地で標的にされていました。日本人の総経理は、宿泊先の情報をネットに書き込まれたため、10日間で4回もホテルを替えている、という話でした。

現地の情報を知るほど、「撤退」という二文字が頭をちらつきました。しかし湖南省の幹部は「今後はわれわれが必ず店舗と従業員を守る」と約束してくれました。私はこの言葉を信じようと思いました。

店を続けるうえでは、反日感情の高まりが、会社への不満にすり替わることが、一番の問題でした。現地の人たちの力を借りずに、百貨店は経営できません。実際、他の日本企業では、社員が工場を休んで反日デモに参加したり、反日デモがいつの間にか賃上げストに変質したと聞いていました。