途上国の問題、世界の平和に関わる

【塩田】今回、「市長辞任」の意向のようですが、もともと「市長は2期8年まで」と明言していました。在任中に仕上げなければと考えているのはどんな点ですか。

【山中】今回の市長辞職表明の前から、2期8年で市長は辞めます、とはっきり言ってきました。2期以上やると、市長という職責にしがらみが強くなります。2期以上行うことで、自分自身が行ってきた市政への自己批判をすることも難しくなると考えています。

私が嫌われていても、10年後、20年後に市民が松阪市の土台をちゃんとつくり上げる松阪市ができればいいと思っています。先に述べたような行政を一貫してやってきましたので、私が市長でなくなっても、住民の「役割と責任」による街づくりができる。そのシステムが重要です。市長が誰であったとしても「市民の声」で街づくりが進む、いままでもやってきましたが、残りの任期でそれを街の土台として残るように緊張感を持って積み上げていきます。

【塩田】辞職後に松阪市長に再選しても、残り任期は在任特例により、2年という形になります。市長再選を果たし、任期を終えてそこで市長の職を離れたとしても、2年後はまだ41歳という若さです。その後の人生をどう描いていますか。

【山中】もともと「地球の裏側の現実」に対して一生涯を懸けてアプローチしてきたというのが自分の原点です。市長の仕事もそうですが、多くの人々の想像力が働きにくい人たち、痛みが大きい人たちにアプローチするのが政治の役割だと思います。これからも多数派の人々の価値観から遠い立場にある人たち、社会の中で自分の価値観が一番及びそうにない人たちに想像力を働かせ、現場に寄り添って、しっかりアプローチするのが自分の役割だと思っています。

市長の後に何をやるかについては、実ははっきりと方向性を持っています。途上国の問題や世界の平和に関わることなど、現場の痛みに寄り添い続ける仕事をやりたい。世界の国々にも日本国内にも、さまざまな痛みが生まれている「現実」があります。市長を辞めた後は、こういう世界のさまざまな現実に向き合う中で活動したいと思っています。

それともう一つ、なかなか進まない大震災の被災地復興の現実に対しても、行政に関わったり、復興の進展など、人の痛みに対して関わりたいという思いもあります。自分が生かされている立場でできることを、「現場の痛みに寄り添う」という原点のもとで行動し続けていきたいと思っています。

山中光茂(やまなか・みつしげ)
三重県松阪市長
1976(昭和51)年1月、三重県松阪市生まれ(現在、38歳)。私立三重高校から慶応義塾大学法学部法律学科へ。98年に卒業し、その年に群馬大学医学部医学科に学士編入学。途中、群馬大学医学部公衆衛生学教室に非常勤で勤務。03年に群馬大学医学部を卒業し、松下政経塾に入塾。04年にNPO法人「少年ケニアの友」の医療担当専門員となり、ケニアでエイズ・プロジェクトを立ち上げる。帰国後、民主党三重県連事務局勤務、衆議院議員秘書を経て、07年に三重県議に当選。09年2月に松阪市長に就任。13年1月に市長に再選し、現在2期目。10年の第5回マニフェスト大賞でグランプリ(首長の部)受賞。著書は『巻き込み型リーダーの改革』(日経BP社刊)など。
(尾崎三朗=撮影)
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