テレビから「バカヤロー!」という怒声が消えて久しい。テレビが元気だった1980年代後半、映画監督大島渚は、討論番組で社会の理不尽に対してつねに本気で怒りを表現していた。大島渚が病気で倒れて以来、全力で怒る人は見かけなくなった。
「怒ったときのエネルギーがすごいので、“怒れる人”という印象が強いかもしれません。でも、普段はとても愉快で、快活に笑う人でしたよ」
在りし日の大島渚についてそう語るのは、大島家の長男、武氏だ。武氏は次男の新氏とともに本書を執筆。肉親しか知りえないエピソードを交えつつ、50の言葉とともに大島渚の人生を振り返っている。
2人にとって、大島渚はどのような父親だったか。子育ては極端に過保護だったそうだ。
「ほとんど怒られた記憶はありません。お客さんが来て鍋の中におもちゃを入れたときはさすがに叱られましたが、それくらい。叱らないよう意識していたようです」(新氏)
「就活で日本電信電話(現NTT)から内定をもらったとき、『こんなでかい会社に入るなんて、いい度胸だ』と感想を漏らしました。どういう意味か一瞬測りかねましたが、こんな大きな会社で社長になれるのか、というニュアンスだった。僕たちにかける期待がとてつもなく大きかったのでしょう」(武氏)
複雑な家庭環境も明かされている。大島渚は6歳で父を亡くし、母親に育てられた。大島少年は父親役を務めようとする母親に甘えられず、親子の関係は良好ではなかった。その後、女優小山明子と結婚。小山は仕事柄、家を空けることが多く、兄弟は祖母に育てられた。「父と祖母の仲がよくなかったので、家の中に緊張感があった」と武氏は振り返る。
祖母が亡くなった後、大島監督は『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』を撮った。母に捧げる私的ドキュメンタリーだ。この映画を見た武氏は、「祖母が亡くなってから、思わせぶりな映画をつくっても遅い」と憤ったという。
親を亡くした後、作品を通して想いを吐露した大島渚。代が替わり、いま同じことを2人はやろうとしている。大島渚も生前に本書を読みたかったのではないだろうか。
「父の闘病中は、僕たちも当事者。介護しながら、この人の人生を振り返ろうという気になれなかった。父が亡くなったからこそ、書けたのかもしれませんね」(新氏)