秀吉亡き後の家督について対立したか
文禄4年(1595)7月8日、山科言経はその日記の中で「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)とが去る三日より不和となっている」と記しています。「御不和」とあるだけで、両者の間に何があったのか、不和の要因については記されていません。
不和となるまで、秀吉と秀次はたびたび面会しています。文禄4年3月には秀吉が聚楽第に秀次を訪ねたり、4月や5月には秀次が秀吉のいる伏見に何度か下向しているのです。6月には秀次は病であるにもかかわらず、伏見に下っています。2人の間で何が話されたのか。
おそらく、豊臣家の家督に関することも含まれていたのではないでしょうか。想像をたくましくすると、この時、秀吉は秀次に対し、拾に関白職を譲ってくれと要請した可能性もあります。しかし、秀次は秀吉の意向に従おうとはしなかったのではないでしょうか。それが原因で両者は不和となり、修復不可能な関係になったとも考えられます。
秀次が謀反を起こそうとしたので、秀吉が怒り、秀次が最終的に切腹させられたとする「謀反説」はよく語られるところですが、秀次には秀吉を圧倒するような軍事力はありませんでした。また秀次は実際に軍勢を動かしてはいません。よって、謀反と言うよりは、秀次が秀吉の意向に背いたこと、これが「秀次事件」の発端となったと考えられます。
秀次は高野山にて切腹、享年28
秀吉は大名に対し、最終的に秀次を高野山に追放した理由を「今度、関白相届かざる子細これあるについて」(このたび、関白に意見しても受け入れられない事情があったので)と書状で説明しています。また石田三成らが吉川広家に宛てた書状にも「関白殿、今度、不慮之御覚悟」(関白殿にはこのたび、心外な心構えがあった)とあるのみで、具体的な追放理由については記述されていません。関白職を剥奪し、高野山に追放したにしては、非常にあいまいな内容となっています。秀次は弁明の機会も与えられず、追放され、7月15日、ついに自害して果てるのでした。
さらに、幼い息子4名と姫君、側室・侍女・乳母ら、総勢39名が京都の三条河原で処刑され、秀次の家臣たちも切腹させられてしまいます。
秀吉が血のつながった甥を殺し、多数いるその妻子、家臣までことごとく処刑したのはなぜか。その真相はいまだに謎ですが、秀吉はいずれは息子の拾(秀頼)を関白とし、豊臣家を継がせたかった。しかし、秀次がそれを拒否したことにより、事態は一気に暗転、悲劇的な結末を迎えたのだと思われます。
参考文献
・駒井重勝著・藤田恒春編校訂『増補駒井日記』(文献出版、1992年)
・藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館、2015年)
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