フロイスの記録では「愛され関白」
秀次については当時、日本に来ていた来日した外国人も記述しています。ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは「この若者(孫七郎殿)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、数日前にも一家臣が他に対して、日本ではそれまでいまだ見聞したことがないようなことを犯したので、その男を殺させた」と『日本史』に記述しているのです。
ただ、宣教師の報告書や書簡は、貴重なものではありますが、彼ら自身が直接見聞したものでないことが多く、また聞きの場合もあり、全てを信用するわけにはいきません。
さて、では秀吉は甥・秀次のことをどう見ていたのか。秀次は長久手の戦い(1584年4月)の際、三河国に攻め入らんとして、徳川方に奇襲されて、敗北を喫します。秀吉はそれから5カ月ほど経った9月、秀次に譴責状を送っています。
秀吉が秀次に渡した「ダメ出し」
秀吉はその中で、秀次が他人に「慮外」(無礼)を働いているとして「沙汰之限候」(もってのほか)と叱っています。秀次が改心すれば、何れの国でも与えようが、今のような「無分別之うつけ」(分別のない馬鹿)ならば、秀吉が面目を失うことになるので「手討」にするとの厳しい表現も見えます。この時の秀次はまだ16歳であり、様々な経験が不足していたのは言うまでもありません。秀吉の言葉は酷なようにも聞こえます。が、秀次への評価が芳しくなかったことは分かります。
そうであるのに秀吉は秀次をなぜ関白としたのか。それは秀吉を長らく支えてきた有能な弟・秀長が天正19年(1591)に病死したこと、淀殿(茶々)が産んだ最初の子・鶴松が同年8月に亡くなったことが大きいでしょう。後継者となり得る元服後の身内のは、秀次のみであり、秀吉は仕方なく、秀次に関白職を譲渡したのではないでしょうか。

