宇野の作家デビューは数年後

その後の宇野は札幌へ移り、そこで小説を書く。東京から届いた新聞で短篇小説の募集を見て、「たった七枚の短篇だったので、それなら私にも出来さうな気がして応募した」。その『脂粉の顔』が、大正10年(1921年)に『時事新報』の懸賞で一等になった。二等は、のちに宇野の夫となる尾崎士郎である。宇野は後年、この初めて書いた作品を「どぎつい発想の、あと味の悪いもの」と評している。

大正11年(1922年)4月、宇野は中央公論社に送った原稿の返事がないことが気になり、単身で上京して樗陰を訪ねてみると、『墓を発あばく』がすでに5月号に載っていると知らされて、原稿料366円(現在の価値で数百万円)を受け取った。

藤村千代の名前で書いた小説「墓を発く」が掲載された「中央公論」大正11年(1922年)5月号
藤村千代の名前で書いた小説「墓を発く」が掲載された「中央公論」大正11年(1922年)5月号

燕楽軒のウエイトレスは、その向かいの編集部で書き手として迎えられた。宇野は『私の文学的回想記』で、あの18日間に見知った文壇の人々が「後に小説を書かうなどと思ひついたことの、原因であったかと考へます」と振り返っている。その樗陰は大正14年(1925年)に世を去り、芥川の死はその2年後になる。

芥川は妻へ「愛しております」

では、宇野が見た芥川は、どういう人だったのか。

明治25年(1892年)に東京・京橋区入船町で生まれ、生後間もなく母のフクが精神を病んだため、母の兄の家である芥川家に引き取られ、12歳で養子になった。東京帝国大学の英文科で久米や菊池らと同人誌『新思潮』を出し、大正5年(1916年)に発表した『鼻』が夏目漱石に激賞されて文壇に出た。宇野より5歳上で、大正10年(1921年)、宇野が「脂粉の顔」で一等になった年には、新聞社の海外視察員として中国へ渡り、帰国後は体調を崩している。

芥川の文学的才能は誰もが認めるところだったが、その恋は、はじめから家に阻まれた。幼なじみの吉田弥生との結婚を望んだが、芥川家の反対で断念している。大正5年(1916年)8月、8歳下の塚本文に求婚の手紙を送り、同年12月に結婚した。ラブレターには、こんなことも書いていた。

「ワタクシハアナタヲ愛シテ居オリマス コノ上愛セナイ位 愛シテ居リマス ダカラ幸福デス 小鳥ノヤウニ幸福デス」