3人の息子に恵まれるが…

妻との間には、作曲家・指揮者として知られる芥川也寸志(三男)ら、3人の息子が生まれた。宇野が燕楽軒で芥川を見かけたのは大正6年(1917年)で、芥川は文と婚約中だった。結婚はその翌年である。

しかし、結婚後も恋愛沙汰はあり、歌人の秀しげ子との関係に、のちに苦しめられたとされる。大正13年(1924年)の夏には軽井沢で14歳年上の歌人・片山廣子と出会い、心のたかぶりを手紙に書いた。昭和2年(1927年)の春には、文の友人でもあった平松麻素子と帝国ホテルで心中を約束したが、実行には至らなかったとされる。

まだ35歳だったのに…、衝撃の最期

同じ年の年明け、姉ヒサの夫・西川豊の家が火事になり、放火を疑われた西川が自殺する。芥川は義兄の借金の始末と、姉一家の暮らしを背負うことになった。そして、7月24日、芥川も田端の自宅で命を絶った。35歳だった。

その前に『河童』『歯車』を書き、『或阿呆の一生』の原稿を友人の久米正雄に託していた。遺書は妻や叔父、画家の小穴隆一、菊池寛らに宛てたものが残され、久米に宛てた『或旧友へ送る手記』には、自殺の動機として「唯ただぼんやりした不安」と記されていた。女性関係が原因ともささやかれたが、菊池寛は追悼文でこれを否定した。命日は、作品にちなんで「河童忌」と呼ばれている。

宇野にとって芥川は、恋の相手ではなく、燕楽軒の客席から見た文壇の一人だった。それでも宇野は、あの店での印象について「知らぬ間に私の中に、何か植ゑつけられたものがあったか」と書いている。芥川が世を去った昭和2年、宇野は29歳で、すでに作家として歩き出していた。「ブラッサム」で珠が悠楽軒で秋山を前にする場面は、その植えつけの始まりを描くことになるのだろう。

芥川龍之介の死去を伝える東京朝日新聞の記事、昭和2(1927)年7月25日付
芥川龍之介の死去を伝える東京朝日新聞の記事、昭和2(1927)年7月25日付

・参考資料
宇野千代『生きて行く私』『私の文学的回想記』、芥川龍之介『葱』『或旧友へ送る手記』、文京区「宇野千代」(文京ゆかりの人物紹介)、北区文化振興財団・田端文士村記念館資料、今日の馬込文学「飛び立つ女たち(大正11年4月12日、宇野千代、上京する)」、JBpress「文豪たちの人生の岐路(第16回)芥川龍之介:前編」、NHK「ブラッサム」公式サイトおよび各話あらすじ

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