札幌で銀行員の妻になるはずが…

さて、大正8年(1919)8月、千代は忠と結婚したが、これは千代がようやく年貢を納めた、とでもいうべき状況だった。そして翌大正9年7月、忠は東京帝大を卒業して北海道拓殖銀行に就職したので、千代も札幌に移住せざるを得なくなった。

明治期の北海道拓殖銀行
明治期の北海道拓殖銀行(写真=国書刊行会「写真集明治大正昭和 札幌」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

これで千代もすっかり観念し、札幌で銀行に勤める夫の世話をする、というのが当時の一般的な女性像だっただろう。千代も当初はそのつもりだったかもしれないが、彼女にはそんなことはできなかった。そして、千代が燕楽軒で知り合った作家や文学関係者とのつながりは、彼女を執拗に東京へと呼び寄せる力になった。

久米正雄は燕楽軒で出会った千代にすっかり惚れて、交際さえ申し込んだほどだったというが(2人の関係がどこまで深まっていたのかは不明だが)、札幌で文筆活動を続ける千代に、大きな力をあたえることになった。

大正9年(1920)11月、「時事新報」が懸賞小説を募集し、全国から寄せられた3000以上の小説のなかから千代の『脂粉の顔』が一等に選ばれた。このとき2人の選者のうち一人が久米正雄だったのである。

札幌の夫を捨てて東京へ

自信を深めた千代は、続いて書き上げた大作『墓を発く』を、今度は「中央公論」の瀧口編集長に送った。だが、なんの連絡もないので、大正11年(1922)4月、札幌から東京の中央公論社を訪ねた。当時は札幌から東京までは三十数時間かかったが、それだけの時間をかけてわざわざ出向いたのである。

車内の木製の座席
写真=iStock.com/arvitalya
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夫の藤村忠には、2日で帰ると約束したそうだが、忠に送り出された際のことを、〈汽車が走り出したとき、ふいに私の両眼から涙が溢れ出し、その涙のために、ホームに立っている悟(註・忠のこと)の姿が、霞んで見えなくなった〉と、千代は書く(前掲書)。

それは、自分は札幌を離れて東京で作家生活をしたく、この機会にそれを実現したい、という思いが湧き上がり、もう札幌には帰らないと直感したからではないだろうか。

中央公論社を訪ね、自分の小説はどうなったのかと尋ねる千代に、瀧田編集長はすでに『墓を発く』が掲載された「中央公論」5月号を見せ、360円の原稿料を手渡した。いまの貨幣価値でいえば20万円程度と思われるが、当時の千代にとっては有頂天になるのに十分な金額だったようだ。