前の夫の弟と一緒に宿に泊まる

木村保のモデルは藤村忠といって、実際、千代の最初の夫の弟だった。京都の第三高等学校から東京帝大法学部に進んだところも、木村保と一緒である。ただし、千代と保の同棲は保が京都で三高に通っていたころからはじまっていた。

しかも、2人がしばらくプラトニックだったなど、とんでもない。まだ岩国にいて保との簡単な文通を続けていた千代は、大正5年(1916)12月、京都から岩国に帰るが、途中で広島に寄るので迎えに来ないか、という保からの手紙を受け取った。それに応えて広島に赴いた千代は、早速、保と一緒に旅館に泊まっている。

千代は〈これが私の、男と一緒に宿に泊まった最初の経験であった〉(『生きて行く私』毎日新聞出版)と書いている。以後、千代と保は知恩院の別院内で同棲し、保が帝大に受かったのちに東京に移り、小石川の女髪結いの2階で暮らした。京都での同棲を千代は〈たった六畳一間の中の、一つの寝床の中に一緒に寝る生活〉(同)と書いた。プラトニックと正反対の関係を示していることは、いうまでもないだろう。

和室に敷かれた布団
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ただ、東京に移って以後、保の父親が裁判所を定年になり、仕送りが途絶えたので、千代が必死に働くほかなかったのはまちがいない。

左良太のモデルになった作家との親密

その際、千代はいろいろな職種を経験した。出版社の事務、家庭教師、ホテルの食堂の給仕、雑誌の口絵のモデル……。「ブラッサム」の「悠樂軒」のモデルである西洋料理店「燕楽軒」でも、大正7年(1918)に働いている。ただし、「ブラッサム」の葉野珠は、保が北海道の銀行に転勤になるまで1年ほどは悠樂軒で働くようだが、千代はわずか18日しか燕楽軒で働いていない。

しかし、その18日間が非常に濃く、そこでの人脈がやがて、夫になる藤村忠をも翻弄することになる。

「ブラッサム」の左良太のモデルは、作家の今東光だと思われる。千代と今との関係はプラトニックに終わったことになっているが、ある日、今が千代の住まいである女髪結いの2階に入り込もうとしながら、邪魔が入ってニアミスで終わったこともあったらしい。それに千代は、のちに瀬戸内寂聴に、今とは結婚も考えたが、厳格な今の親が女給仕との結婚を許さなかった、と白状している。握手をとがめられたが誤解だ、というレベルの関係ではなかったのである。

ほかにも、「ブラッサム」の黒崎編集長のモデルである「中央公論」の瀧田樗陰はもちろんのこと、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫ら、錚々たる作家たちと燕楽軒で出会っている。