「村上春樹」を読まないワケ
――養老先生がそれを体現していらっしゃると。
【養老】本人は毛頭そんなつもりはないんだ。例えば、SNSでは他人に読んでもらうことを前提に、人のことを頭に置いて書くものだけど、ものを書くときに他人に合わせたことをどのくらい入れるべきか。僕はもう絶対入れないほうがいいと思っています。
――そうですか?
【養老】他人に合わせて書くなら、書くこと自体をやめたほうがいい。自分の心、自分が考えていることをひたすら押していくのが物を書くことであって、自分に忠実であればあるほど、実はポピュラーになるんですよ。そこに若い人は気がついていない。
――そういえば、ゴジラの音楽で有名な日本純音楽の大家である作曲家の伊福部昭(1914~2006)は、西洋の価値観で評価されようとするのではなく、日本の中のドメスティックな文化をベースに表現をつくるからこそ世界でも認められるんだと、そういった旨のことを言っています。それと通じるものがありますね。
【養老】それはよく言われることで、村上春樹が朝日賞を受賞したとき、「美空ひばりのような土俗性がない」と批判する人がいた。村上春樹はそれをわざとやっていて、西洋の価値観を日本にもってきた明治以来のおかしさに乗っかることで、真似すること自体が自分の一部になってしまっているという、そのおかしさを表現しているんだ。明治の薩長の人たちが西洋を学んで日本に移植しようとした時代を経て、それを使って戦争して負けて、さらに何十年かが経った。いまの世代はそれを知っているから、村上さんが評価される。僕はまだそういうのが気に入らないので村上春樹は読まないんだけど。
他者が表現したものの受け取り方
――価値を他人に伝えていくことには関心がないとおっしゃいましたが、天野礼子さんのように、養老先生が虫採りをする姿を伝えていきたいという周りのみなさんのことはどう捉えていますか。
【養老】昔からの性分であんまり他人のことは考えないんだよ。さっきも言ったように、人に読んでもらうことを前提として書くことをしないのと同じで、やっぱり、なにかいけないような感じがする。
――逆の立場で、例えば私が養老先生の言葉に興味をもったときに、どう受け取りに行くのがいいのですか。
【養老】他者が表現したものの受け取り方に正解があるかということでしょう。正解はないと思うんだ。最小限のルールがあるだけ。昆虫の分類だったら、リンネ(カール・フォン・リンネ、1707~1778)が作った体系があります。「綱」・「目」・「属」・「種」といった階層構造や、学名を二名法で記すといったことです。
それから新しい種を発表するときは必ず文章にする。いまのように写真が発達した時代でも、言語化することが中心になっている。感覚の世界から一回離陸しないといけない。その離陸の仕方が人によって違う。だから、分類学者が何人かいれば、必ず意見の食い違いが起こる。でも分類学の場合は、見ているのは昆虫の標本という同じものなので、そこへ立ち帰れば見解が一致するところまで戻れる。

