ボケないと思えば決してボケることはない

「人間は何事も自分の考えた通りになる。自分の自分に与えた暗示の通りになる」

ある夜、天風先生がそう言われたのです。

「出来ないと思うものは出来ない。出来ると信念することは、どんなことでも出来る」

『おはん』以来17、8年の間、ぴたりと一行も書けなかった私が、ひょっとしたら、私は書けるのではあるまいか、そう思った途端に書けるようになりました。

失恋すると思うから失恋するのだ。そう確信したときから、私は蘇生したように書き始めたのです。

ペンを持って書く人の手
写真=iStock.com/Renovattio
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ボケて生きるのは死んだのと同じだと、私は思います。私は自分がボケるなぞとは思えないのです。ボケないと思えば決してボケることはないのです。

そして私は、後35年の人生を、存分に生きるだけ生きて行くでしょう。その先のことは知りません。それが寿命なのですから。

寿命の尽きた日、秋になって風もないのに木の葉がポトリと落ちるように死んで行く私であると、私には思われるのです。

欲望がなくなるのではなく、質が変化する

齢を取ると欲がなくなると言うが、それはほんとうであろうか。私は、この秋に95歳を迎えるのであるが、この説は、どうも、ほんとうには思えないのである。

宇野千代『死ぬまで自由に生きる習慣』(明日香出版社)
宇野千代『死ぬまで自由に生きる習慣』(明日香出版社)

欲望がなくなるのではない。質が変化するのである。若い時には雑多に我と我が身を占めていた欲望が、整理されるのである。単純化されるのである。あの、灼けつくような欲望は今はない。激しい渇望も去った。いってみれば、生きが悪くなったのである。

しかし、私は、今のこの自分が好きである。私にとって、今いるこの場所、この時が私の人生なのである。少し、生きは悪くなったが、私には、毎日することがたくさんある。希望が胸の中に湧いて来るのである。

私にはまだまだかくされた能力があると、自分なりに思っているのである。その能力を探し発揮していくことが、生きることなのである。

そして、むずかしいことかも知れないが、『おはん』を超える作品を書きたいとまだ思っている。このことに私は一念をかけて、毎日、出来るだけ机に向かっているのである。